ブルーガイドが創刊した昭和30~40年の日本の旅とは?
ブルーガイドシリーズが発刊した昭和30年代から、ラインナップが拡充していく昭和40年代にかけては、空前の観光旅行ブーム。高度成長期を迎え、好景気を背景に旅行の大衆化・多様化に拍車がかかりました。
新婚旅行は専用列車で「南国」へ
昭和35(1960)年に、昭和天皇の五女・貴子さんが島津久永氏と結婚し、新婚旅行で青島を訪れたこと、2年後の昭和37(1962)年に当時の皇太子ご夫妻(現在の天皇・皇后両陛下)が訪問されたことから、当時の宮崎はロイヤルウエディングの象徴として大人気でした。昭和40年代前半のピーク期には、すべて一等車の新婚旅行専用列車「ことぶき」が、東京・大阪から運行。幸せそうに並んで座る新婚カップルで、常時満席の盛況でした。
当時はまだ海外への新婚旅行が一般的ではなく、首都圏からの遠方志向に加え、異国感ある南国のロマンチックなイメージも、宮崎が人気を博した理由とされます。海外への新婚旅行は、昭和39(1964)年の海外渡航の自由化後、ジャンボジェットが就航した昭和45(1970)年以降本格化し、以後はハワイやグァムが注目され始めます。
修学旅行の行き先 人気ナンバーワンは?
戦時中は中止されていた修学旅行ですが、昭和33(1958)年の学習指導要領の改訂時に、教育活動と位置付けられてから活発化しました。団体旅行を通した社会教育とされ、戦後から昭和40年代にかけては京都や奈良、伊勢といった古都での歴史学習、全国からの東京見学などが主な行き先、目的となっていました。
当時の修学旅行の目的地は、京都と東京が双璧。中でも東京で大人気だったのが、昭和33年12月に完成した東京タワーです。年間100校を軽く超える学校が訪れ、団体を乗せたバスが駐車場が空く暇もないほど、頻繁に往来していたそうです。 増加し続ける修学旅行の輸送需要に合わせ、昭和34(1959)年には修学旅行専用列車「ひので」(東京)、「きぼう」(大阪)が運行を開始。後の全国各地への専用列車の配置につながり、新幹線が修学旅行輸送を担うまで活躍していました。
新幹線に高速道路 どんどん発達する交通網
昭和30年代に入ると、社会インフラの整備が本格化しました。特に昭和39年開催の東京オリンピック、昭和45年開催の日本万国博覧会(大阪万博)に合わせた全国的な交通網の整備が、観光ブームの盛り上がりに大きく寄与したといえます。
中でも影響が大きいのは、新幹線と東名・名神高速道路といった、鉄道と道路の二大幹線の開業でしょう。新幹線は昭和39年10月1日に、東京~新大阪間の東海道新幹線が開業後、昭和47(1972)年に岡山、50(1975)年には博多と西へ延伸。停車駅で在来線特急に乗り継いで北陸や山陰、九州へ向かう、新幹線を柱としたネットワークが形成されていきました。
高速道路は昭和40(1965)年7月に名神高速道路、44(1969)年5月に東名高速道路が全面開通。ハイウェイバスの運行も始まりました。昭和45年ごろからはマイカーが大衆化し、高速道路網の発展がドライブブームにも繋がりました。
ひとり旅に出る若者の増加と、女子旅のルーツ「アンノン族」の登場
昭和30年代中盤からの旅の大衆化は、若年層へも波及しました。団体中心の旅行から、若者の個人旅行が増加。大きな契機となったのが、昭和45年に国鉄が展開したキャンペーン「ディスカバー ジャパン」です。「美しい日本と私」をキャッチフレーズに、旅情あふれるポスターやテレビCMが話題を呼び、若年層や女性旅行者に大ヒットしました。
雑誌の誌面に旅行特集が見られるようになったのも、この頃からです。昭和45年創刊の「an・an」(平凡社)、翌46(1971)年創刊の「non-no」(集英社)は、若い女性の指向にフィットする旅行特集で、一世を風靡しました。
それまでの風光明媚、歓楽的な有名観光地から、あまり知られていないスポットに着目。萩・津和野、倉敷、高山、金沢、木曽路など、「小京都」と呼ばれるようになった落ち着いた町並みの散策が、少人数グループの女性旅行客に人気を博しました。当時「アンノン族」と呼ばれた彼女たちは、今でいう女子旅の先駆的な存在といえるでしょう。