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●カルチャーを消費した子ども時代 子どもの頃の私は、大人が考えていることを深読みするような嫌な子どもでした。もっと言うと、学校の先生はすごく馬鹿だと思っていました(笑)。「なんで読めば分かるのに、教科書に書いてあることをもう一度授業でやらないといけないの?」と思い、授業もほとんど受けずに、たいがい美術室や図書室にいました。 ありがたいことに理解のある先生方で、私は特例のようなかたちで許されていました。幸い、授業でやるような内容はほとんど勉強しなくてもできたので、高校まではそんな様子で問題なくいけました。 こういった考えを持つようになったのには親からの影響もありました。小さい頃から親に本を譲られることが多く、小学生の頃には『カムイ伝』、中学生になるとマルクスの『資本論』や、ランボーの詩集を渡されて読んでいました。そういったものを読むうちに、「人間って未熟なんだな」「大人の言っていることってウソなんだな」ということが早いうちに分かってしまったのです。 両親からは思想面で影響を受けたのですが、ひとつ年上の姉からはいわゆるサブカルチャー方面で影響を受けました。家の近くに古本屋さんがあって、そこでいろいろな本を探すのがふたりの共通の楽しみだったのですが、そこで姉が買ってきた都築響一さんの『Tokyo Style』という写真集を見たときに、「自分ってこういうものが好きなんだ」と気づかされました。 『Tokyo Style』は東京に住む人々の部屋の写真を集めた本です。自分には、世の中で一般的にきれいだと言われるようなものではなくて、この本に取り上げられているような、雑多であったり、ちょっと薄汚れていたりする、どうしてもそういう生活をしなければいけないんだという人たちのことを思うほうが性格にあっているなあということが、本を読むことで分かってきました。 そんなこともあり、学校では授業を受けずに、不良の友達とバスケの練習をするか、図書館や美術館でひたすらに本を読んで、カルチャーを消費するということに一生懸命でした。 ●社会工学と出会い東工大に 中学生の頃から『資本論』を読んでいたため、社会主義や社会のあり方について考えることも多く、高校生の頃には、もっと適切に社会を運用する仕組みがないかなと考えるようになっていました。同時に、科学者になりたいという気持ちもあったので、科学哲学の本をよく読んでいたのですが、そのなかで、「ソーシャルエンジニアリング」という言葉に出会いました。 日本語では「社会工学」と訳されているのですが、1960年代に、社会を科学の視点やアプローチで見る必要があるという機運が高まった時期にできた学問です。自分の問題意識や興味に合った学問でしたから、私はぜひ学びたいと思いました。日本で社会工学科という学科をはじめに作ったのが東京工業大学だったので、せっかく学ぶなら社会工学が生まれたところがいいだろうと思い、東工大に進むことを決めました。 純粋に社会工学を学びたいと思って決めた進路だったので、大学を出たその先の進路まで考えて、というわけではありませんでしたし、理系・文系ということは考えませんでした。 今も自分のポリシーとして持っていることなのですが、理系・文系という言葉を使ってしまうと、インテリジェンスが削がれてしまうと思います。文系だろうが理系だろうが、区別せず学ばなくてはいけません。 私たちの会社には、人工知能や機械学習系に限らず多くの学生さんがインターンに応募して来るのですが、圧倒的に教養が足りない人が多いです。私たちは数理モデルを使ってAIを作っていますが、モデル構築の背後にあるのは人文科学の知識であることが多いのです。ですが、私たちがそういった議論を始めると、学生さんたちはついてこられません。これは学生さんだけではなくて、機械学習専門で研究されている大学の先生や企業の研究者さんと話したときにも感じることです。 学問に線引きするのはナンセンスですし、そのような線引きがあってたまるかと思っています。そういった意味では社会工学は横断的な学問でした。
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