第12回 森川すいめいさん
ホームレス支援活動に参加する
 旅と並行して、阪神大震災の頃からの「友だちを作りなさい」という使命感がまだあったので、ボランティア活動も続けていました。それが現在も続けているホームレス状態の人々への支援活動でした。言葉を選ばずにいえば、始めは好奇心から野宿をしている人たちのところへ行ったのですが、それがまた私の世界を広げることになりました。
 支援活動に参加するにあたって、私はホームレス状態の人々のことを全く知りませんでした。何の思いもなく、偏見すらありませんでした。何も知らないまま活動に行って、素直に感じたのが「なんでこんなに悲しんでいる人がいるんだろう」ということでした。
 いろいろな人と会いました。死にたいという人も、路上生活から脱したいという人も、路上でがんになって亡くなってしまう人も、病院に行ったのに追い出されてそのまま亡くなってしまう人もいました。支援活動は憤りとの戦いでした。その憤りを解消したいということが、現在も活動を続けている理由のひとつです。


研修医時代、2度目の挫折
 旅とボランティアを続けるなかで、大学を卒業して研修医になる時期が来ました。6年生が終わると、研修生と研修先の病院をマッチングするのですが、私は7か所くらい面接を受けてすべて落ちてしまいました。面接ではホームレス支援の話をしたのですが、病院は研修医にそういった外での活動を求めていませんでした。
 ただひとつ埼玉県の病院だけは面白がってくれる人がいて、そこへ2年間研修に行くことになりました。その病院では、自分で勉強をすることを覚えられました。研修先の病院は人手が足りていなかったこともあり、当直をたくさんやらせてもらえたのです。だいたいのことは本に書いてあるので、問診のときにはたくさんの本をもって、症状と本の内容を照らし合わせて治療法を考え、上司の先生に相談をしたうえで治療を実践できました。
 一方で、医者のなかでも勉強することを止めてしまった先生がいることがわかってきました。研修を始めて4か月くらいでしたが、私はまたもや大きく落胆することになります。きちんと勉強していない先生の治療はひどいものだったので、私はその先生に「あなたは医者じゃない」といってしまいました。
 研修医を辞めさせられそうになったところを別の先生方に守っていただいたのですが、2度目のうつを発症してしまいました。このときもまた友だちに助けられました。私から何かをいったわけではなかったのですが、友だちはわかっていたようで、私の知らないうちに精神科のクリニックの予約まで取ってくれていました。そのクリニックで相談員さんと話して、初めて自分の思いを吐き出せて気もちが軽くなりました。また私を助けてくれた友だちも私を受け止めてくれて、私は薬を飲まずに研修医として働きながら回復することができました。
 一人ひとり自分の特性があると思いますが、私が生きやすくなるためには、自分のペースで勉強して、選択していくことがとても大事でした。それができなくなって気もちが爆発してしまうという経験をとおして、そのことがわかってからはとても楽になりました。このくらいがちょうどいいのだというさじ加減がわかって、自分をコントロールできるようになったのです。


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