第60回 声優 永井一郎さん

「二〇〇二年に『バカモン! 波平,ニッポンを叱る』(新潮社)という本を出しました。そうしたら,私に叱ってほしいという人がかなりいると知って驚きました。ただ闇雲に叱られるのではなく,叱られる理由や理屈を聞きたいのでしょうね」
演劇との出会い
 旧制高校では理科と文科にコースが分かれていて,私は理科に進みました。もちろん大学も理科に進むつもりでした。ところが旧制高校の理科の試験で,xyzの方程式を三次元の図に書き表す問題ができなかったのです。とてもショックでした。「これは才能がない。やめたほうがいい」と思って,大学は文科に転向しました。
 いざ大学に入ると,文科は理科と違って何もすることがありません。とにかく時間が余って,暇で仕方がなかったのです。
 そんなある時,友だちに誘われて演劇部を覗きに行きました。それが演劇を始めたきっかけです。その時は「将来,役者になるんだ」という意識はありませんでした。舞台をやっているうちに,次第に「こんなにおもしろい世界はない」と思うようになっていったのです。
 大学を卒業すると,役者をやるためにすぐに東京に出てきました。けれども,文学座と民藝の試験を受けて落ちたら,俳優座を受ける勇気が無くなってしまいました(笑)。しばらくはアルバイトをしながら,どうしようかなと思案する毎日でした。何しろどうやったら役者になれるかなど,その頃は全くわからなかったからです。
 また,役者になりたいとは思っていましたが,役者で生計を立てるとは思ってもみませんでした。この先もずっとアルバイトをやりながら,年に何本か芝居をやっていくんだろうなと思っていたし,それでもいいと考えていたのです。
 ただ,親父が許すわけがないと思いました。そこで親父に打ち明ける時には理論武装して,対決覚悟で臨むことにしました。ところが,親父は私にこう言ったのです。
 「俺はお前に金も地位も遺してやれん。何も遺してやれん。けれども,絶対の自由だけを遺してやるから好きにおし」。
 不意に足を払われた心境でした。好きにやれと言われたら逆に動けません。砂漠の真ん中にぽつんと置き去りにされたようなものです。「左に行ったらオアシスがある」と言われて,その言葉が真実だと思ったら素直に従えばいい。嘘だと思ったら,逆へ行ってもいい。そういう状況と同じです。絶対の自由など世の中のどこにもないということが,その時によくわかりました。


東京タワーの思い出
 元々,電通に勤めるつもりはありませんでした。私は小さな俳優養成所に行きたかったので,昼間は電通でメッセンジャーボーイのアルバイトをしていました。ところが,電通に勤めていた学生時代の先輩に私のことが露顕して,無理矢理入社させられてしまったのです。
 俳優の養成所は,一年だけのコースを落第して二年間通いました。その間はずっと電通のお世話になりました。「いつでもいい。君の好きな時に来て,好きな時に帰れ」という,本当に優しい会社でした。そんな具合で養成所に二年間通った後に,ありがたく電通を退社させていただきました。今はとても感謝しています。
 電通を辞めてからしばらくして,当時できたばかりの東京タワーに上がったことがありました。展望台から見渡すと,八王子の先まで家がずらりとつながっています。「やはり東京はすごいな。この小さい家の一つ一つにみんな持ち主がいるんだ」と呆然としました。その頃の私はほとんど収入がありません。普通はそこで自信を無くすのでしょうが,私はわりと呑気でした。
 「あ,この家の持ち主も,この土地の持ち主もそのうち全部死ぬ。私が長生きして六十歳か七十歳になったら,ほとんど全部死んでいる。放っておいても家なんて降ってくる。長い間,こつこつと黙って努力していればなんとでもなる」とその時に思ったのです。今振り返ると,実際にその通りになりましたね(笑)。


二十五歳で年寄り役
 その頃,俳優座の三期生たちが集まって結成した「劇団三期会」というのがありました。かつては愛川欽也もいましたが,今は「東京演劇アンサンブル」という名前に変わっています。私はひょんなことからその三期会に入れてもらったのですが,当時は二十五歳の私が一番年上でした。年寄りの役ばかりやらされて,重宝がられました(笑)。思えば,その時からずっと年寄り専門です。
 その劇団三期会が受け持っていたテレビ番組の仕事が『スーパーマン』です。当時は生放送のアテレコでした。六ミリテープはあったのですが,映像に合わせて録音しても,放送するとずれてくるのです。
 そのうちにテレビがアメリカのいろいろな作品をアテレコするにつれて,アテレコの仕事から先にスケジュールが決まっていくようになりました。そのために舞台や映画など,他の仕事がほとんどできなくなってしまったのです。
 若い頃というのは理想も高いし,新劇の俳優に「なんだ,アテレコなんかやっているのか」「漫画なんかやっているのか」などと言われると,普通だったらとても屈辱だろうと思います。でも,私にとっては何をやっても本当におもしろかったのです。さまざまな人物や生き物,木,石など,何にでもなりきることができるのですから。
 よく,若い子たちが「何をやっていいのかわからない」と言いますが,私は「わからなかったら,とりあえず何でも夢中になってやってみろ。絶対におもしろいから」とアドバイスしています。おもしろくなかったら,すぐにやめればいいのです。人生は長いのだから,五〇回ぐらい変わってもいい。その代わり,こつこつと真面目にやっていれば,後で必ず結果がついてくると思います。


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