第60回 声優 永井一郎さん

「私は四百歳まで生きるつもりです。周りは『そんな歳までお金があるのか』なんて言いますが,百三十歳越えたら天然記念物です。国家が面倒見てくれますよ(笑)」
声優志望の若者へ
 今は昔と違って,声優になりたいという人が多いです。でも,みんなが声優になれるかというと,なかなか難しい。現実的にはアテレコやアニメの制作本数というのは決まっています。当然,出演できる人数も自ずと限られてしまうのです。
 もちろん,アニメ以外にも声の仕事というのはたくさんあります。おもちゃからも声が出ますし,「七時をお知らせいたします」などというのもそうです。声が出るものは全て声優がやっているので,そういう意味では需要があります。けれども,やはり全ての人が自分の希望する仕事をできるというわけではないのです。
 また,きれいな声や特別な声をしているから声優になれるというわけではありません。声優を志す動機というのは大抵そういうことでしょうが,肝心なのはテクニックなどではないのです。役者の仕事は演技をするのではなく,人間一人を作ることなのです。
 ボールペンやコップを知らない人はいないでしょう。では,実際にボールペンやコップを作ってみてくださいと言われて作れますか。作れないというのは,本当は何もわかっていないのです。それと同じように作れるほど人間を知らなかったら,役者なんてできません。
 ですから,私は「声優になるのなら,大学まで行きなさい。人間をきちんと勉強してきなさい」と勧めています。大学を出てから役者になっても全然遅くありません。また,大学で勉強しているうちに他のことがおもしろくなって声優を志すのを辞めることができたら,それにこしたことはないのです(笑)。


二人の波平
 『サザエさん』一家は,今の日本の大多数の家族と違って,携帯電話もパソコンもないし,テレビゲームも自家用車もありません。ちゃぶ台でみんなそろって食事をし,波平とフネは家では着物を着ています。よく,日本中に愛されている理想的な家族と言われますが,それは物など何にもなくても良いということでしょう。物がないと不幸だ,と思っていること自体が不幸だということです。
 作者の長谷川町子が亡くなった時に,いろいろな評論家たちが「現実をきちんと映したリアリズムの作家が死んだ」というような言い方をしていました。けれども,それは違うと思います。
 『サザエさん』は終戦の翌年に四コマ漫画で連載が始まりました。当時はサラリーマンの定年が五十五歳だったので,その時の波平は五十三,四歳ぐらいでしょう。すると,生まれたのは明治二十七,八年の日清戦争の頃です。一方,今のテレビで放映されている波平も五十三歳です。当然,こちらの波平は戦後の生まれです。つまり,明治二十七年生まれの男と戦後生まれの男が,はたして同じ人間かということになります。波平の戦争体験はどこへ行ってしまったのでしょうか。
 明治二十七年生まれも戦後生まれも,両方を成立させようとすると,どんな時代にも通用する父親像しか描けないわけです。つまり,それは理想の父親像です。実際,「理想の父親像・フィクションの部」というので波平は一位になったことがあります。カツオも同様です。いたずらをしようが,成績が悪かろうが,理想の子ども像なのです。
 ちなみに私の親父は,私が勉強していたら「電気代がもったいない」と言ったり,私が本をねだると「人生に必要な本は辞書だけだ。バカモン」と言ったりしていました(笑)。そういう意味では,私の親父はかなり波平的というか,理想の父親像をやってくれたのではないでしょうか。


歩む道は変わってもいい
 私は若い頃からずっと役者を目指してやってきました。振り返ってみると,声の仕事が中心で,当初考えていた方向とは少し違う道を歩んできました。実際には,流れに身を任せて真面目にやってきたというのが正直なところです。
 もっとも,私は常に満足を求めて一所懸命やってきたことも確かです。ですから,何の後悔もありません。人間の一生というのはものすごく大きな力で背中を押されています。自分だけの思いで生きられるわけではないし,人に支えられて生きているのです。当然,その中で自分の考えていたことと,歩む道が変わってきてもいいでしょう。
 満足を求めることについては,もちろん私はこの歳でも「よし,自分の声をこれくらい高く出してやる」というような勉強は常にしています。でも,その結果がどうなるなどと考えたことは全くありません。何かの役に立てばいいし,役に立たなくてもいいと思っています。


(写真・構成/桑田博之)
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