第59回 ライフセ-バー 佐藤文机子さん |
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●無事故を守った八年間 ライフセーバーになるには,日本ライフセービング協会が行っている講習会を受けて,レスキュー・パトロールするのに必要な資格を取らなければなりません。受講後は協会から各地のライフセービングクラブを紹介してもらったり,あるいは人伝にクラブに入っていったりします。講習会は,基本的な体力があれば誰でも参加できます。 実はライフセーバーのほとんどは学生です。海水浴場が開設されている七,八月の遊泳期間中にずっと活動するには,夏休みのある学生でないと無理だからです。社会人は,休暇を調整して交替で来ます。やはり学生だけでは無理なので,大人も必ず参加します。大人たちの多くは学生時代からずっと活動していて,社会人になっても辞めずに続けている人たちです。 私は「九十九里ライフセービングクラブ」というところに所属しています。日によって変わることもありますが,基本的には各メンバーの担当の浜が決まっています。私は,昨年まで蓮沼村殿下海水浴場を担当していました。おかげさまで担当した八年間はこれまで無事故です。 ただ,遊泳期間が始まる前に起きた,忘れられない事故があります。まだ海水浴場が設置される前で,私はたまたま事務所で一夏のシフトの調整をしていました。その時,突然電話が鳴って「人が流されているから行ってくれ」と言われたのです。車ですぐ近くの浜だったので駆けつけると,ちょうど流された男性が海の家の人たちに引き揚げられているところでした。その人の顔はすでに真っ白で,呼吸も心臓も止まっている状態でした。 二人で泳いでいたそうで,もう一人の男性もしばらくしてから引き揚げられました。その男性のそばで,妊娠中の奥さんが半狂乱になって叫んでいた光景が今も私の頭から離れません。 ●過酷なアイアンマンレース 大学入学後にライフセービング競技を始めて以来,国内の大会ではアイアンマンレースやラン・スイム・ランなどの競技で何度も優勝してきました。中でも,アイアンマンレースはもっとも過酷な競技と言われています。サーフスキーとパドルボード,スイムの三種目で成り立ち,それぞれの種目ごとに沖合にある三つのブイを回るのです。回るブイの距離は種目によって異なります。 たとえば,サーフスキーというのは長さ五・八メートルもあるカヌーに似た器材で,スピードが出るのでもっとも沖にあるブイを回ります。次に速いのが膝立ちで漕ぐパドルボードです。ブイの位置は三つのうちの真ん中になります。スイムは三種目の中で一番遅いので,浜から一番手前のブイになります。沖合までの距離は,サーフスキーで三〇〇メートルぐらいです。種目の順番は試合によってくじで決めます。 競技のルールは,基本的にはインターナショナルルールに従います。ですから,沖合までのブイの距離も一緒です。ただ,海はどうしても干満によってブイの位置が変わってきます。その時の波の状況によっては,ブイが流されないような場所へ移すこともあります。 ●プロになったいきさつ 初めて出場した世界大会は,私が大学二年生の時の,九四年のイギリス大会でした。スタートラインに立った時のことは今でもよく覚えています。真横に立つ外国人選手の手足の長さや体格に圧倒されて,その時は自分がまるで子どものように感じられました。 プロになったのは一九九七年からです。とはいえ,実は日本のライフセービングの世界では,プロやアマチュアといった規定は全くありません。では,なぜ私がプロなのか。それは,一九九六年五月に行われた世界選手権での出来事が発端でした。代表で選ばれて参加した私は,たまたま現地で各国の選手と一緒に集められて,主催者側から「翌九七年から世界のシリーズ戦をやりたい」というプランを発表されたのです。同じ選手たちだけでいろいろな国を回る,いわばF1グランプリのような形で,アイアンマンレースだけをやりたいという話でした。興味のある選手はサインをしていってくださいということだったので,私はサインをして日本に帰ってきました。すると後日,そのイベント発案者のトップの人が来日して,私に契約書へのサインを求めてきたのです。 当時,私は大学四年生でした。周りの同級生はみんな就職活動をしている中で,自分はこの先もずっとライフセービングをやっていきたいと思っていました。そこで,今の自分に出来ることは,試合に出て勝つことによって,何らかの形で取り上げてもらえる選手になることではないかと考えたのです。そこへちょうどいいタイミングでプロのお話があったので,私は契約書にサインをしました。 その時に日本でプロ契約をしたのは,私ともう一人の男性の二人だけでした。契約する条件として「必ずプロを名乗ること」という項目がありました。プロとして,企業などと契約してレースに出ることを求められたのです。
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