第59回 ライフセ-バー 佐藤文机子さん

二〇〇二年全日本ライフセービング選手権にて。
ラン・スイム・ラン優勝。
全米選手権大会で優勝
 国内のレースでずっと勝ち続けるうちに,次第に大きな重圧を感じるようになりました。周囲から「別格」とか「勝って当然」といった声を耳にするようになったからです。でも,私は常に努力してきたから一番になったのです。特別でもないし,負ける時は負けます。それを,周りの人がおもしろがって言うことが本当に辛かったのです。
 私は,大学時代に国内のどんな種目でも一番でありたいという目標をめざしてがんばってきました。そして,大学四年の時に国内で全戦全勝を達成することができたのです。ところが,その目標を達成してしまって,ふと気が付くと,私はいつ誰かに抜かれるかという恐怖しか考えられなくなっていました。
 そうした気持ちを打ち消すためにも,私はトレーニングを重ねました。過度の練習による疲労で体調を崩すことも多くなりました。それでも私は体調を崩すのは練習が足りないからだと考えて,さらに練習に練習を重ねたのです。一時は精神的にも疲れてしまいました。
 また海外でのシリーズ戦も,観客が見ていておもしろいように,わざと波が高い会場で開催されました。つまり,人の安全よりもイベント性を求めてやっていたのです。初戦からそのような大会ですっかり気圧された私は,競技中にボードに必死にしがみついて指を骨折してしまいました。「いつかレース中に死ぬのではないか」という恐怖が私の脳裏をよぎりました。そういう恐怖心や,これまで勝ち続けてきたプレッシャー,試合の契約金だけでは生活していけない苦しさ,日本の中であまりにも認められていない自分の存在の小ささなどを感じるうちに,いつしか消えてしまいたいと思うようになっていったのです。
 もはや自分の力ではどうにもできなくなった私は,メンタル指導を行っているスポーツドクターを紹介してもらいました。そして,私はとても衝撃的な言葉をたくさん浴びせられたのです。
 「勝利というのは勝ち続けることでも守り続けるものでもない。その時の勝者にふさわしい者が勝つんだ」「結果にとらわれてはいけない。いかに自分が納得のいくレースをできたか,今までよりどれだけ変われたかを見るべきだ」。
 それまでの自分の考え方と全く違うことを言われた私は,少しずつその言葉を実践するように努めました。そして,次第に自分が変わってきて,ついには競技を楽しめるようになったのです。
 一九九九年の全米選手権は,ようやく海外に飛び出してみようと思えるようになった初めての試合でした。ところが,大会の三日前に現地に着くと,飛行機のコンテナに載せていたサーフスキーが衝撃などで真っ二つに割れていたのです。思わず目の前が真っ暗になりました。急いでわずか三日で修理できるところを探してみたものの,残念ながらどこにもありません。仕方なく,私の足の長さに合うサイズの器材を会場で人伝に探して借りて回ってみたのですが,どれもサイズが合いませんでした。
 結局,レースの直前に代わりの器材を借りて,自分の力の全てを出せればそれでいいという気持ちでレースに臨みました。そして優勝することができたのです。そこからは完全に吹っ切れたと思います。


ジュニアライフセービング教室
 これからは競技以外の活動にも積極的に取り組んでいきたいと思っています。私は以前から,ライフセービングを少しでも世の中に普及させたいと考えてきました。特に子どもたちに教える活動をやりたいと思っていたのです。そこで,一昨年からスイミングスクールに通っている子どもを対象に,二泊三日のジュニアライフセービング教室を開いています。場所は蓮沼です。もちろん,まだ子どもなので,あまり難しいことは教えられません。本当に簡単な応急処置の説明をしたり,海での泳ぎ方や海のゴミの話をしたりしています。
 やはり,泳げる子がライフセーバーに向いていることは言うまでもありません。ただ,私はそれだけの理由でスイミングスクールに通う子どもたちに教室を開いているわけではないのです。「あなたの泳力を活かす先があるんだよ」ということを教えてあげたいからです。ライフセービング人口を増やして,もっとライフセービングを浸透させたい。それが私の目標です。


(写真提供・佐藤文机子/構成・桑田博之)
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