第55回 登山家 田部井淳子さん

<二〇〇三年七月,トルコのアララット山にて>
就職希望は“地味”なところ!?
 将来は高校の先生になりたくて,大学では教職課程を取っていたのですが,大学四年の時に「ただ大学を出ただけで,こんなにも物を知らない人間が人に物を教えていいのか」と考えるようになって,教師を断念しました。また,いわゆる普通の企業の面接試験も受けてみたのですが,なんとなく気が進まなかったのです。
 そこで,なるべく人が行かないような地味なところを探していたところ,学校の就職案内に『日本物理学会ジャーナル編集部』というのを見つけて,自分の希望の条件に近いと思ったので応募しました(笑)。日本物理学会というのは,物理を専攻したり研究したりしている学者や研究者の,会員制の学会です。その方たちが会費を納めて,修士論文や博士論文,あるいは研究論文を投稿し,編集委員会の先生方の審査に合格した論文だけを私たち編集部員が『ジャーナル』という,英語で書かれた月刊誌にしていました。その仕事を,当時は私ともう一人の女性の二人だけでやっていました。今考えると,どうしてそんなことができたのだろうと思います。
 その頃の私は,「夕方五時以降は自分の時間」と考えていたので,五時になるとパッと退社して,お琴の稽古や観劇,山の会の会合などに出かけていました。その分,朝早く出勤したり,お昼休みも早く切り上げたりして,「仕事は山へ行くお金を稼ぐため」と完全に割り切っていましたね。


女性だけの初めての海外遠征
 この頃は,私の登山も本格化し,『龍鳳登高会』という岩登りばかりしている社会人山岳会に所属していました。夫の政伸と知り合ったのもこの頃です。政伸は別の山岳会で岩に登っていて,たまたま同じルートを登ることがあったのです。
 一九六九年に「女だけで外国の山に行きたい。それも,できればヒマラヤへ」という目的で,別々の山岳会に所属する十六人の女性が集まって『女子登攀クラブ』という会が結成されました。私はそのまとめ役の,四人のうちの一人に選ばれて,ネパールのアンナプルナIII峰(七五五五メートル)に副隊長として登ることになったのです。
 あの当時はヒマラヤの資料がとても少なかったので,作家の深田久弥さんのお宅に伺って,「私たちはわからないので女ばかりで行けるところで,しかも七〇〇〇メートルを超えているところを教えてください」とお願いしました。深田さんは四つぐらい候補を挙げてくださったのですが,その中で一番高かったのがアンナプルナIII峰でした。
 とにかく初めての海外遠征で何もわからず,現地では苦労しました。荷物の通関に必要な書類は何かから始まって,四トンのトラックを雇ってそれをどこに運ぶのかということまですべて英語で交渉しなければなりませんでした。でも,出発するまでの準備の方がもっと大変だったので,私は日本を出て現地のベースキャンプに着いたら八割は成功したといっていいと思います。
 現地へ行ってみて初めてわかったのですが,ヒマラヤ登山というのはただ単に体力や登攀の技術があればいいというものではありません。隊長に協力し,チームワークを守り,自分に与えられた仕事をきちんとやると同時に,自分たちがやるべきことの中で何が今一番大事なのかという,全体を見通せるバランス感覚がとても大事なのです。
 また,現地では仲間同士でもわからないことにたくさんぶつかります。その時に,「隊長はこんなことは教えてくれなかった」とか,「東京ではこんなことは予定していなかった」とか,必ず過去ばかり振り返る人がいます。でも,そういう人をあてにしていたのでは事が進みません。ですから,どうやったら解決できるかを考えて「これでやっていきます」と,ある程度突っ走っていくような牽引力が,特に隊長には求められます。
 こうしたアレンジメント能力,交渉能力,語学力以外に,現地の文化を大事にする心も必要です。「手で食べているのはちょっと」とか,「日本ではこうだ」という人では困るのです。


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