第55回 登山家 田部井淳子さん

<二〇〇三年一月,ガイドたちとタヒチのアオライ山山頂にて。左端は夫の政伸氏>
世界初の女性によるエベレスト登頂
 アンナプルナIII峰では,頂上へのアタックメンバーに選ばれて無事,登頂に成功しました。
 帰国すると,今度はエベレストを目標に定めて,同じ隊長の下で再び全国からメンバーを募りました。私は子どもが生まれたのを機に,十年勤めた日本物理学会を退職し,食料や装備の準備に取りかかりました。この準備期間だけでも一四〇〇日間もかかりました。
 エベレストに行くと決めた時はクラブ員が五人しかいなかったので,とにかく人を集めることになったのですが,ヒマラヤをめざして山登りをしている人をどうやって探し出すかが難問でした。いろんな山岳会に「女だけで行きたい人を紹介してください」とお願いしたり,山へ行きそうな格好をした女性に駅で声をかけたり,山で出会った女性たちを誘ったりしてみました。しかし,「行きたい。でも,体力がない」とか,「でも,技術がない」とか,「でも,暇がない」とか,「でも」の人が多かったのです。私たちは「でも」ではなくて,本当に行く意志のある人に集まってほしかったので,そうした人を一年以上かけて探し,ようやく十八人集めることができました。
 その次に大変だったのが資金集めです。一九七〇年に日本山岳会が出したエベレスト隊の規模は,隊員三十五名で総額一億円でしたが,私たちの予算は約四〇〇〇万円でした。
 でも,当時はこの予算でやるしかないと思っていたし,女ばかりなので自分の財布にいくら入っているかがわかっていて買い物をするので,限られた予算でできたのだろうと思います。すでに持っている物は使えるから買いませんでしたし,保険のかけ方にしても,最低の補償でいいというものと,いろんな補償がついてくるものとありますが,現地の人を何百人も雇うわけですから,それによって金額がずいぶん変わってきます。こうした生活感の違いが山では非常に大事ですね(笑)。
 こうした準備以外にも,当時は「男は仕事,女は家庭」という考えがまだまだ世間一般に根強くて,女がエベレストへ行くということについては理解や協力を得ることも大変でした。
 一九七四年十二月に先発隊としてコルカタ(カルカッタ)に出発し,翌七五年二月に,カトマンズで本隊と合流しました。高度五三〇〇メートルのベースキャンプまで総勢六〇〇人の現地ポーターを雇ってのキャラバンでした。
 第二キャンプで大雪崩に遭ったときは,五人が生き埋めになり,一番ダメージがあった出来事でした。幸い全員が無事救出されましたが,私もケガをして一時は登山中止かとヒヤリとしました。
 七五年五月十六日にシェルパと二人で登頂に成功しました。その時は二人とも体力の限界で,アイゼンの爪三センチ分ぐらいを持ち上げたら,あとは爪をズルズル引きずっていくような感じで登っていました。でも,「これが一生続くわけじゃない。いつか必ず終わるときが来る」と自分に言い聞かせて歩いていました。ですから,「これ以上高いところはない。ここが頂上だ」とわかった時には,やったとか,うれしいとかいう気持ちよりも,「もう,これ以上登らなくていいんだ」というのが正直な感想でした。


高校生の海外交流環境体験登山
 二〇〇〇年三月には九州大学大学院の比較社会文化研究科修士課程を修了しました。研究テーマは「エベレストのゴミ問題」です。今は山岳環境保護団体,HAT-J(日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト)の代表を務めており,登山隊の廃棄物に取り組んでいます。ただ,ゴミの問題については皆さんの意識がかなり浸透してきたので,今はむしろ屎尿の問題の方が大きいですね。
 そうした活動と同時に,青少年たちに環境について関心を持ってもらうことにも力を入れています。毎年行っているのですが,今年も十二月に青少年のための海外交流環境体験登山というのを香港で行いました。今回はパキスタン,中国,ネパール,ブータン,香港,台湾,日本などの高校生が参加しました。それぞれの国の山の環境のことや,実際に現地の香港の山を歩いて感じたことなどをテーマに,高校生同士でシンポジウムをするのです。自分の国に帰って発表したり,自分たちに何ができるかを考えたりして,後に環境問題に携わる職業に就いた人もいます。
 最近,若い人たちが参加するような登山の会や学校の山岳部が少なくなってきているのが非常に残念です。花を見たり,景色を眺めたりする山の楽しみをぜひ味わってほしいし,こんなに楽しくて,気持ちよくなれるところがあることを知ってもらうチャンスをもっと作っていきたいですね。


(写真提供・タベイ企画/構成・桑田博之)
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