第53回 吉本興業取締役相談役 横澤 彪さん

「ちゃんとしたアナウンサーがいて,はみだし系のアナウンサーがいて,ちょうどバランスが取れていいね,という感じで『ひょうきんアナ』をやったのですが,今でははみ出し系の方が圧倒的に多くなってしまいました」
新たなお笑いを開拓
 フジテレビに入社すると,制作部に配属になりました。社会教養番組を二年担当したのを皮切りに,音楽,ドラマ,クイズ,お笑いと,次々にいろいろな番組を担当しました。もともとは報道をやりたいと思っていたのですが,研修の時に一週間ほど報道をやったら,どうも雰囲気が違うなと感じたのでやめました。
 三十一歳の時にフジテレビの出版部門に配属になり,さらにフジテレビの出版部門がサンケイ新聞の出版局に統合されたのを機にサンケイ新聞に出向し,単行本の販売や編集を七年半やりました。
 その後,テレビ現場に復帰してプロデュースしたのが『ママとあそぼう!ピンポンパン』でした。
 八十年代に入って『THE MANZAI』『笑ってる場合ですよ!』『オレたちひょうきん族』が次々と時流に乗りました。特に『ひょうきん族』はそれまでのお笑い番組と違って,段取りだけ決めたら,あとはカメラを回して,その場の雰囲気やアドリブを大切にするというやり方でした。これが視聴者には,とても新鮮に受け止められたようです。でも,当時はすごいことをやっているという意識は全然なくて,止むに止まれずの,苦肉の策でした。要するにみんな売れっ子だから,忙しくて収録日に集合しないわけです。一番来ないのは吉本の芸人でした(笑)。しかたがないので,今までの作り方をやめたのです。でも,ぶっつけ本番ではありません。ちゃんと台本はありましたが,とりあえず打ち合わせをして,出演者の動きを決める「ドライ」というリハーサルをしてOKだったら,次のリハーサルからカメラを回すというやり方にしたのです。そのリハーサルがよければ,そのまま放映してしまいますが,ダメだったらもちろん本番までやりました。そうすると,収録したものが二つあるので,いい方だけをつなげるということもできましたし,時間も短縮できますから,これはいいやり方でした。それでも,帰宅は深夜で,朝には家を出ていくという生活でした。
 『ひょうきん族』は,エンディングテーマにユーミンの曲を使用したり,プロデューサーの僕やディレクターがおかしな格好をしてカメラに映ったり,スタジオでの笑い声もおじさんおばさんではなく,若い人の声だったり,『ひょうきんアナ』というコーナーではできるだけ「スキ」のある女子アナを起用したりしてきました。そういう点が,それまでの番組に比べるととても斬新だったと思います。
 そういう意味で言えば,八十年代半ばに始まった番組で放映終了から十年以上経っていますが,未だにその流れがテレビのバラエティーに残っているというのは,僕はひどいなと思います。もう,変えなければ(笑)。今のバラエティーを観ていると,ほとんど僕たちの考えたようなやり方,そのままです。これはすごく情けないです。近い将来,こんな調子でテレビが続いてしまうと,「だれだ,最初にこういうことを始めたのは」と,戦犯に挙げられてしまいそうですが(笑)。
 『ひょうきん族』は,常にPTAなど全国の親から「子どもに見せたくない番組」の一位に挙げられていました。二位が『笑っていいとも!』。でも,今とはまた状況が違いますし,やはり多くの人が見る番組が「俗悪番組」と言われるのはどうしてもしかたがないです。


番組のヒットした理由
 『笑っていいとも!』は,司会のタモリが「やりたくない」ということで当初は三ヶ月だけの予定でスタートしました(笑)。今では,「同一司会者でもっとも多く放送されたバラエティー番組」ということでギネスブックに掲載されています(編集部注:一九八二年十月四日の放送開始以来,これまでに五〇〇〇回以上)。
 番組がヒットした理由は,それまでは深夜時間のタレントとされていたタモリを起用したこともありますが,僕が思うに,情報を薄く伸ばしたことではないでしょうか。普通はたくさんの情報をなるべく多く詰め込みますが,そうではなくて,非常に薄めてゆっくり伝えたんです。たとえば,ラジオは思いのたけをいろいろしゃべることによって自分の考えを伝えていきますが,テレビは十分しゃべったことを一分に編集して放映します。そうした方がテレビ的と言うのですが,それをラジオと同じようにダラダラやる,というのが「薄く伸ばして」という意味です。そういう番組だったから珍しかったのではないでしょうか。
 有名なゲストが出てくる時でも,新聞の番組欄などに名前を絶対に入れないことにしていました。前もって決まっているわけではなく,すべて「ハプニング」ですから絶対に入れませんでした。
 ハリウッドスターのダスティン・ホフマンが出たこともありました。彼はそれまで「テレビに出ない」という人だったし,映画会社の人が「気むずかしい人で,大物なので,とにかく大事に」と,うるさいぐらいでした。ところが実際にスタジオに来たら,とても気さくで,番組の最後には,小柄な彼のスニーカーが上げ底で,ヒールの中の部分が高くなっているのを見せるサービスまでしてくれました。そうしたら,その放映を観ていた映画関係者から反響があって,その後は次々といろいろな映画俳優が来ました。普通は「この人だったらいい」とか「この人はダメ」とか,番組サイドで吟味をするわけですが,僕らはそういう基準は作らず,だれでもOKでした。
 谷啓と研ナオコが舞台でミュージカルをやるということで,生放送中に宣伝のためにスタジオにポスターを貼りに来たことがありました。僕らは何だかわからないけれど,それをはがさず,そのままにしておいたら,一週間後に今度は二人がはがしに来たんです。別に仕組んだわけではありません。そういうふざけているような感覚は大事にしました。
 そうした番組づくりのノウハウや,こだわっている部分というのはとてもあります。番組を観ていると,なんだかとても簡単に作っているように見えるでしょうが,実はハプニングにこだわっていろいろなリスクを負っているのです。ですから,腹が据わっていなければできません。スタッフには「絶対に仕込んじゃダメ」と言っていました。どうしても準備して仕込みたくなってしまうんですが,それをこらえてじっと我慢するんです(笑)。


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