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●ラジオと映画に夢中だった 父親が新聞記者をしていた関係で,小さい時から全国を転々としていました。やっと新しい学校に慣れた頃には転校するのでなかなか友だちができませんでした。でも,みんなが遊んでいるのを脇で見ている経験が重なって,自分のフィルターを通して物事を見る姿勢が身につきましたし,後にプロデューサーになって人間を観察する上でとても役に立ったと思います。 中学生の頃は,まだテレビはありませんでした。エンターテインメントというのは,ラジオか映画ぐらいでした。その頃のラジオ番組はNHKしかなかったので,民放ができた時はコマーシャルがとても新鮮でした。 志ん生や可楽などに熱中し,寄席番組のファンになり,お笑いの世界に興味を持ったのもこの頃です。当時から,いろいろな映画を観てましたが,どういうわけか,エノケンをはじめ,外国ではダニー・ケイやビング・クロスビーなど,「笑い」関係の映画は今でも覚えています。映画館にはひとりで観に行っていました。当時の小,中学生の中では進んでいる方でした(笑)。 少年時代の将来の夢というのはすごく漠然としていました。小学校の作文では,たぶん新聞記者と書いたんじゃないでしょうか。父親のような仕事をしてみたいなと思ったのでしょう。マスメディアの世界には,その頃から興味がありました。 ●今は「就社」の時代 大学四年生の時に「日本における社会運動の歴史」というテーマを卒論に選んだのですが,テーマが広すぎてまとまりがつかずに,留年してしまいました。翌年は,違うテーマで卒論を無事に書き上げてフジテレビに入社しました。その頃は入社試験の時期が早くて,完全に青田買いでした。六月ぐらいに試験があって,十月ぐらいには内定が出ていました。本当は他の企業も受けたかったのですが,卒論がまた間に合わなければ困りますから,他の企業は受けませんでした。テレビ局を選んだのは,潜在的にマスメディア志望というのはありましたが,別にテレビ局でなければいけないということはなかったです。 当時と全然違うと思うのは,今はたとえばマスメディア志望でも「フジテレビに何としても入りたい」とか「日本経済新聞に絶対に入りたい」というように,その会社の状況とか,その会社の今日の株価とかをすごく研究して,いろいろ仕込んでめざしますよね。意地悪くいえば,就職というよりも「就社」の時代です。 僕らの時は,大学は学問する場,企業は仕事をする場ということで,わりと両者に距離がありました。「何が何でもこの会社でなければ」という人が少なかったです。学生の方に知恵がなかったですし,たとえば「安保条約についてどう思うか」と聞かれたら,思想的に相容れないところに行くのだから,うそをつかなければいけないわけです。ですから,「そんなにまでして就職しなければいけないのか」という自己嫌悪はありました。
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