第52回 メキシコオリンピック銀メダリスト 君原健二さん |
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●初マラソン,そして東京オリンピック 当時の八幡製鐵という会社は,スポーツ王国といわれるほどいろんなスポーツが強いことでよく知られておりました。たとえば,あの東京オリンピックの日本代表選手のうち,当時の八幡製鐵の社員がなんと十八人も選手として活躍したのでございます。 八幡製鐵の高橋さんという偉大な指導者と出会えなければ,私は一度だってオリンピックに参加できなかったと思っております。 私は二十一歳になった時に,マラソンに挑戦いたしました。地元・福岡の国際マラソン,当時は朝日国際マラソンという大会でございました。私はその初マラソンを慎重に走りました。結果は二時間十八分一秒という,今では本当に平凡な記録に過ぎませんが,当時,日本のマラソンで一番いい記録だった二時間十八分五十二秒を,私は初マラソンで五十一秒上回る日本最高記録で飾ることができたのです。その結果,初めて大きな目標を抱くことができました。それは,初マラソンの後,一年と十ヶ月後に迫っておりました東京オリンピックでした。 そして,東京オリンピックのちょうど一年前,プレオリンピックというオリンピックと同じ形の国際スポーツ大会で,私は第二位をおさめることができました。また,最終選考マラソン大会が再びオリンピックコースで実施されましたが,その大会で私は優勝しました。二番になったのが,あの円谷さん。三位が寺沢さん。この上位三人が,東京オリンピックの日本代表マラソン選手に決定いたしました。 そして迎えた東京オリンピックは本当にすばらしい大会でした。その東京オリンピックの最後を締めくくるマラソン競技で,エチオピアのアベベさんが世界最高記録で,オリンピック二連覇を果たしました。そのアベベさんに約千メートル遅れて,競技場に戻ってきたのが日本の円谷さん。ところが,円谷さんはゴール手前で後ろから来たイギリスのヒートリー選手に追い抜かれ,第三位の銅メダルとなりました。戦前,独裁者だったヒットラーの元で開催されたベルリンオリンピック以来,二十八年ぶりに円谷さんは日本の陸上でメダルを獲得するという輝かしい功績を残されました。 一方,私は第八位。私の関係者はとっても落胆しました。でも,成績は正しいです。いくら力を持っていましても,その持っている力を発揮しきれないのは誰のせいでもありません。自分のせいです。自分の持っていた自己記録に対しても三分三十秒も記録が及ばなかったのでございます。それも私の実力のうちです。私は世界で,マラソンで八番目の力だったんだと,その成績に納得してオリンピックを終わりました。 ●恩師・高橋さんの言葉 オリンピックが終わった後,私は一年間はほとんど競技にも参加しませんでした。もう,競技を辞めてしまおうと思っていました。間もなく結婚もしました。そして,甘い新婚生活に浸っていたのですが,その新婚生活が落ち着くのを恩師の高橋さんはジーッと待っておられました。 やっと新婚生活も落ち着いたと思われる時期を見て,高橋さんが「青春時代にしかできないことは青春時代にやっておかなくてはいけない。老いて再び肉体の限界を極めることはできない。走る限界は今しか極められない」ということをおっしゃったんです。私は断わりましたが,高橋さんは引き下がりませんでした。繰り返し,燃えるような熱い説得が続きました。その説得に私はついに従わざるを得なくなり,再び競技者生活に戻っていくことができたのです。
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