第52回
メキシコオリンピック銀メダリスト
君原健二さん
2004年1月号掲載


PROFILE
メキシコオリンピック銀メダリスト。一九四一年,福岡県生まれ。福岡県立戸畑中央高校卒業後,八幡製鐵(後の新日本製鐵)に入社し,一九九一年まで勤務。その後,一九九二年から二〇〇一年まで九州女子短期大学(教授)に勤務。三十二歳で競技の第一線を退いたが,第七十回ボストンマラソン大会(優勝)をはじめ,数々のマラソン大会に出場し,マラソン王国ニッポンを牽引してきた功労者。現在は,北九州市教育委員や福岡教育大学運営諮問会議委員,ランニング学会理事,日本ウォーカソン協会会長など幅広く活躍。

「円谷幸吉さんは二十七歳という若さで自らの命を断ちました。私にとってはライバルでしたが,実は同期という関係で,共通の思い出がたくさんあります。それだけ私にとっては大切な人を失ったことは今でも残念でなりません」
算数上手はマラソン上手!?
 私は,生まれも育ちも福岡県北九州市でございます。子供の頃,学校の成績はとっても悪いほうでございました。小学一年生から六年生までどの科目もみんな成績がよくなかったので,次第に「自分は人に比べると,勉強もスポーツも劣っている」という劣等感を持って過ごすことになってしまったのですが,実は劣等感だって捨てたものではございませんでした。恥ずかしいことは少しでも小さくしたい,という小さな向上心が生まれ,それによって少しずつ自分自身を成長させていくことができたのです。
 小学六年生のとき,成績表で一科目だけ評価されたのが算数でした。そのことがきっかけになったのか,その後,中学校時代,高校時代をとおして算数,数学という科目は比較的いい成績を残すことができましたし,マラソンというスポーツにいかすことができました。あの四十二・一九五キロメートルという長い距離を上手に走るためには,一定のペースで走るのが一番経済的な走り方でございます。シドニーオリンピックで優勝なさった高橋尚子さんが,世界で初めて女性として二時間二十分の壁を破る世界最高記録を作りましたが,あの時の五キロごとのスピードタイムを見てみますと,一番速かった速さと遅かった速さのその差がわずか二十六秒でした。五千メートルで二十六秒でございますから,百メートルに置き換えますと,わずか零コンマ五秒です。一秒の半分の誤差しかなかった。スタート地点からゴールするまでほとんど平均したスピードで走ったということが証明されています。そこにあの大記録を作られた大きな要因があったと思われます。


思いがけない就職
 中学二年生のときに,クラスの友達から「君原,駅伝クラブに入らないか」と誘われました。私は,走ることは得意ではありませんし,興味や関心もございませんでした。ただ,中学生の頃の私はとっても気の弱い性格で,それを断る勇気がなく,漠然とした気持ちでその友達について走りはじめたのでございます。
 高校三年生になった時に,やっと全国大会,インターハイに出場することができました。成績は予選落ちでした。それでも当時の私は「全国大会に参加できた」という満足感でいっぱいでしたし,走ることなんてどうでもよかったので未練はありませんでした。それで,高校を卒業したら就職して働かなくてはならないということで,あちこち就職試験を受けてみました。けれども,どこの企業も採用してくれるところはございませんでした。
 ところが三月の卒業式直前になって,今の新日本製鐵,当時は八幡製鐵という会社でしたが,社の方針として陸上競技部の,特に長距離部門を強化するために急きょ,別枠で三人採用するということになりました。卒業式の直前にまだ進学も就職も決まっていない選手なんて,時期が時期ですから当然残っているわけがございません。幸いに,その三人の中の一人に私にも声をかけてくださるという幸運によって当時の八幡製鐵に就職することができたのでございます。


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