第45回 ロスオリンピック代表選手/スポーツジャーナリスト 増田明美さん

「アメリカではオレゴン大学に入って英語の勉強から始めました。NECに所属してNECアメリカ社に派遣という形でした」
「マネージャーになってほしい」
 自宅から成田までは往復三時間以上もかかるので,入学後は滝田監督の家に下宿しました。成田高校は陸上の名門校で,しかも下宿先のふすまの向こうには,同じ種目のライバルがいたので,すごく気持ちの上では苦しかったですね。でも,彼女がいてくれて本当によかったです。お互いに刺激しあいながら自己鍛錬ができました。
 ただ,私は陸上部の中でもたまたま国立大学をめざす進学クラスにいたので,睡眠時間は毎日四時間ぐらいでした。それで,一年生の時に貧血になってインターハイ出場後に走れなくなってしまったのです。そうしたら監督に「選手をやめて部のマネージャーになってほしい」と言われたのです。それで腹を立て,監督の下宿を出て陸上部も辞めて実家に帰りました。そのときは,もともと志望していた地元の長生高校へ転入しようと手続きも進めたのですが,私立からの転入はできないということで断念せざるをえませんでした。でも後になって知ったのですが,それは私のやる気を引き出すための監督の指導法だったようです。
 その後,二年生の春に監督から「もう一度,戻ってこないか?」と言われて陸上部に戻りました。そうしたら,これも監督の方針で,私は練習ができていないのにたくさん試合に出場させられたのです。千葉県選手権の予選にも出場したのですが,予選で落ちてしまいました。くやしくて泣いていた私に,転入ができなかった長生高校の関谷守先生がレース後にいっしょに歩いてくださって,先生は私が実家に帰ったこともご存じだったようで,「増田さん,転んだらなにかをつかんで立ち上がらなくちゃね」と言ってくださったのです。静かに心に染み込みました。日を追うほどに湧いてくるものがあって,ただ立ち上がってはいけないなと思ったのです。それから秘密練習を始めました。部の練習が終わった後に駅に向かうまでの三十分間,少しでも部員たちに追いつくために,みんなとは帰らずに教室に戻って一人で最初の十五分間は補強運動をし,それが終わると駅まで制服姿で毎日,一・五キロの道のりを全力疾走していました。練習後の疲労困憊の中での三十分間がよかったと思います。
 どんどん力が付いていくのがわかりました。高校三年の春,中日二十キロロードで世界最高記録を,そしてフルマラソンでも日本最高記録を出すことができました。また,マラソンで記録を出す前にトラックの三千メートル,五千メートル,一万メートルの記録も塗り替え,それはもう完璧な高校時代でしたね(笑)。


無念のロスオリンピック
 高校卒業後の二年後に,ロサンゼルスオリンピックが控えていました。女子マラソンがオリンピックの正式種目となることが決まっていたので,私は高校時代の環境を変えずにオリンピックを目指したかったのです。幸いにも地元の川崎製鉄千葉がそっくり引き受けてくださったので,監督ともども入社することになりました。ところが練習はますますハードになり,アクシデントが起こりました。オリンピックの前年の大阪国際女子マラソンで,貧血で倒れて途中棄権をしてしまったのです。それでそのレース後に,旭化成の宗茂・猛兄弟にマラソンを教えてもらおうということで合宿に参加すると,「マラソンは距離が一番長いからこそ,気持ちをワクワクさせて走らなければいけないよ」と宗兄弟に教えてもらって,また新しい気持ちでマラソンに取り組むことができました。
 ただ,ロスオリンピックについては,当時は暑さ対策を練習に取り入れてはいたのですが,今とはだいぶ違い,科学に基づいたものではなく,暑い中で走り続ければ暑さに慣れるという練習方法だったのです。ですから,ニューカレドニアや宮古島などの暑いところばかりを選んで練習しましたが,実はけっこう体の中に疲れをためてしまったのです。今でしたら,練習が終わった後に血液検査をして疲労物質がどれくらいあるか測定するということもできるんでしょうが,そういう方法はまだ行われていませんでした。合宿を続けるうちにどんどん体調が悪くなってしまったのです。でも,このトレーニングを消化しなくては自信が持てないという気持ちが大きかったので,練習をストップする勇気もなく,また上手に気持ちを切り替えられればよかったのですが,切り替えられ
ず,レースに臨みました。そして,十六キロ地点で無念の途中棄権という結果になったのです。


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