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●「忘れ物ナンバーワン」の小学校時代 実家は,九十九里浜の最南端の太東崎にある専業農家です。両親はどちらかというと過保護だったと思います。祖母からも甘やかされていました。とにかく私は我が強いというか,聞かない子でした。その代わり,悪いことをした時や,正直でなかった時には厳しく怒られました。小学校三年生の時に,苦手だった算数の答案用紙を仏壇の奥に隠して,蔵の中に入れられたこともありました。 それから,私は小さいときから忘れ物がひどかったのです。玄関に置いておいたはずの体操着や,音楽で使う笛などをよく忘れてしまうので,当時の学校の先生が,みんなの前で私に「忘れ物ナンバーワン」というあだ名をつけたほどでした。学校までの二・五キロの道のりのうち,途中のだいたい一・五キロぐらいで「あ,忘れ物をした!」と思い出して,先生にまた言われるのがいやで走って家まで取りに帰っていました。それで,足腰が丈夫になったのでしょうね。今ではあだ名をつけてくれた先生に感謝しています(笑)。 ●本当は教師になりたかった 小学校六年生の時に,壺井栄さんの『二十四の瞳』を読んで,すごく感動したのです。忘れられないシーンがあって,松江という女の子が家の事情で学校に来られなくなってしまうのですが,大石先生がその松江に,彼女の大好きなユリの絵のついたお弁当箱を渡すのです。そして,「先生はあなたになんにもしてあげられないけれどいっしょに泣いてあげることはできるから」と言って泣いてしまうのです。その小説を読んでからですね,小学校の教師になりたいと思ったのは。 今さらながら,私はなにかの影響をすごく受けやすいタイプだと思います。中学校では当時,テレビアニメ『エースをねらえ!』が大人気で,主役の岡ひろみになりたいと思ってテニスを始めました。でも,部員の数が多くて,二年生の夏ぐらいまでは壁打ち練習をずっとやっていました。 そんなある時,スポーツテストで比較的足の速かった私が,町内駅伝大会に陸上部の助っ人で参加して,高校生をごぼう抜きして優勝の原動力になったのです。そうしたら,翌日の朝礼で全校生徒の前で校長先生から表彰状をもらったのです。幸いにも校長先生がスポーツ好きな人だったので,ただ表彰状を渡すだけではなく,背の高い高校生たちを抜いた私の姿がいかに精悍だったかをほめてくださったのです。それは,今まで味わったことのない喜びでした。 それからはいろんな大会に出たんですけど,町とか郡とかの試合ではだいたい優勝していましたね。八百メートルも千葉県の大会では県記録を作って優勝しました。走っている時は苦しくても,頭に浮かぶのは次の日の朝礼でみんなの視線を集めることだけでした(笑)。 中学三年の夏には八百メートルで全国大会で四位に入るなど,すばらしい中学校時代でした。が,それはそれとして,卒業後は地元の県立長生高校を出て教員になりたいと思っていました。それで,書類も提出した後だったのですが,秋口に私立成田高校の滝田監督(俳優の滝田栄さんのお兄さん)が,ふつうは勧誘って学校に来るのに,自宅まで勧誘に来られたのです。後で知ったのですが,高橋尚子選手を育てたことでも有名な小出監督(当時は桜高校の監督)も,私の勧誘に学校まで来てくださったそうです。滝田監督はすごくストレートな手段を取る方でしたので,直接,家まで来られたのだろうと思います。お会いしてみると,監督は話が上手だし,説得力がある。おまけに目がきらきらしていて(笑),最後に「俺といっしょに富士山のてっぺんに登らないか」と。その一言で,私は成田高校へ行こうと決心しました。
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