第34回 サイエンス・プロデューサー 米村傳治郎さん |
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●気ままに過ごした大学時代 結局,千葉大学はあきらめて,四回目の大学受験で東京学芸大学の中学,高校の理科教師養成の学科に進みました。村中を自分の庭のようにして過ごしてきたふるさとを離れて,ひとり暮らしが始まりました。ひとり暮らしといっても,アパート探しも乗り遅れて,親戚の叔母さんの持っていた一室を借り,お風呂や食事にと叔母さんの家に通う生活です。 大学時代は楽しかったですね。興味のあることを,興味のままに追求できる。ある日,アンデス民謡の演奏を聴いて,いいなぁってとても感銘を受けたんです。それで,アンデス民謡の楽器を作りたいと思った(笑)。下宿していた叔母さんの家の近所の竹林で竹をもらってきて,自分の部屋にずらーっと青竹を並べました。構造を考え,長さや太さを選び,出る音を調節しながら,楽器に仕立てる。誰に教えられなくても,結構,見事な管楽器を作れるものですよ。 東京学芸大学は,教員養成のイメージが強いでしょうけれど,そのころは教師になるということは考えていませんでした。大学の教授も他の大学で自分の専門科学を研究してきた人たちだったので,「教えるための科学」ではなく科学を研究することができました。 四年になってまわりが教員採用試験だなんだとざわついてきたころ,就職するのは「まだいやだなぁ」となんとなく思っていたんです(笑)。そんなところに,同級生の友達が「東京学芸大の大学院に進みたい」というので,一緒に大学院を受けることにし,合格。学生をさらに続けることになりました。 大学院でも物理の研究をしていました。教育に熱意を持つ友だちに感化されて,教師という職業に興味を持ち始めたのも大学院に入ってからでした。 ●教科書だけの授業はしたくなかった 卒業後,大学院の先生に紹介されて,練馬にある自由学園という幼稚園から大学部まである私立の学校で,実験指導の講師を始めました。これから十五年近く続いた「教師」としての第一歩です。 自由学園という学校は,その名のとおり「自由」なところがありました。年間カリキュラムを教科書に沿って立てなくてはいけないなんてことは,なかったんです。特に大学部の男の子たちには,テーマだけを与えて,自発的に研究していくような授業をしていました。「自発的に」というと,はっきり言って,ぜんぜん進まないのも事実なんです。それでもレールを引くのではなく,ヒントを出して待つ。1年間ひとつのテーマをいくつかの角度から研究させるんです。研究としてはたいした成果を出せない。でも,「風力発電」をテーマに研究していた学生からだったと思います,「研究としては進まなかったけれど,勉強とは科学とは何か,その面白さがわかりました」といった内容の手紙をもらい,嬉しかったですね。 自由学園で三年教えた後,都立高校の教員採用試験を受けました。教えることになったのは,いわゆる「教育困難校」といわれていた学校でした。校内は雑然としているし,授業中にふらっと教室の外に出て行く生徒もいる(笑)。今まで持っていた「学校」に対するイメージとあまりにもかけ離れた状態に,初めはびっくりしました。 先生たちはみんな若かったですね。教師の間でも人気のない学校だったので,若い教師に押し付けられていたんじゃないですかね(笑)。でもだからこそ,形にはめられない教育もできました。「今日は自然観察にいこう」と校外に連れ出したり,大きな気球を作って浮かべてみたり。 生徒たちも,付き合ってみると,開けっぴろげで,明るい子たちなんです。そのころガラス細工部という部活動の顧問をしていたんですね。「せんせー,ガラス細工でピアス作れないのー?」と遊びに来るんですよ。「作れるよ。やってみろ」と答えると「作ってよ」と甘えたり文句言ったりしながらなんだかんだやっている(笑)。初めは「新米教師がこんなところでやっていけるだろうか」と思った学校でしたが,試行錯誤の八年間は楽しかったですね。 二つ目の都立高校は,中上位の進学校でした。まず,生徒たちが制服を改造していなくて髪の毛も黒いことに驚きました(笑)。前の高校では女の子たちはその時代にもうスカートを短くしていましたから(笑)。授業中も,ひとつ板書すると,みんながいっせいにノートにペンを走らせるんです。正直,「やりにくいなぁ」と思いました。 生徒にとって大学受験が念頭にあっての授業なんですよね。自主的には勉強しないのに,外で模擬試験を受けてくると「この単元はまだ授業でしないんですか」とか言いに来るんです。校外に出たり教科書を使わない授業は,学校からも生徒からも生徒の親からも圧力のようなものがあり,窮屈さを感じるようになっていました。
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