第14回 作家 西丸震哉さん

登っては降りてくる。山男はバカだって父親は言ってましたね(笑)
幽霊にとり殺されそうになる
 大学卒業後,岩手県の釜石にある水産試験場に就職した。これは自分を知っている人がいないところで腕試しがしたかったことと,あの近辺の山に登りたかったことが動機ですね(笑)。前年に米軍の艦砲射撃を浴びた町ですから宿舎などなく,製造工場の片隅に缶詰の箱を積み重ねて寝台をつくり,そこで寝泊まりを始めた。
 六月の夜おそく海沿いの道をトボトボと帰ってくると,工場近くのコンクリート堤に女がもたれかかっている。ところがそばに近づいた途端,ふっと消えて女の姿が見えなくなった。さては目の錯覚かと,その日はそのまま帰って寝てしまったんだけれども,四日後にまたおそく帰ってくると,同じところに女がいる。確かめると浴衣姿の二十七,八になるかと思われる色白の美人。女の正面を横切るとき,またもや,ふっと消えてなくなってしまった。すぐに女の立っていたところまで飛んでいって調べたけれど何もない。
 翌日,ついに女の一メートル手前まで近寄ることができた。「お晩です」と声をかけても目も合わさずに知らん顔で海を見ている。「もしもし」と言いながら指で彼女の肩を思い切って突いてみたところ,指先は何の抵抗も感じず,同時に女も消え去ってしまった。そのとき初めて背筋がツーと冷えた。翌日,棍棒を手にまた一メートルのところまで近づいて,「君は幽霊かね。しゃべれるんなら返事しろや。黙ってるとぶんなぐるぞ。いいか,それ」と女に棍棒を振り下ろすと「ガツン!」と何もないコンクリート堤を叩きつけている。こちらの頭が狂ったのかと市立病院で徹底的に検査してもらったけれど,まったく正常とのこと。それからもちょくちょく女の姿を見かけたけれど,なるべくそばを通らないように別の道を通って帰っていた。
 ところがしばらくするとついに私の寝ている工場の中にまで毎日出てくるようになった。五メートルほど離れたところから一晩中こちら側を向いている。別に何をするわけでもないので,私は徹底的に彼女を無視する方針に変えたけれどあまり気分のいいものではない。翌年の四月,試験場の二階の講堂の隅にシングルベッドを借りて引っ越した。彼女も気づかなかったらしく,久しぶりの解放感にひたれたけれど,これも長くはつづかなかった。
 一か月後に彼女が現れたときには,ベッドのすぐ横に立ち,寝ている私を上から見下ろしている。それでも彼女の瞳は私を見ていない。私を素通りした場所に焦点を合わせている。不思議なもので,自分を見ていないとわかるとそんなに怖くは感じない。私はふたたび無視を決め込んだが,ある夜,何となく彼女のようすが今までとちがっている。今まで私の向こうの涯を見ていた彼女の目が,私の目の中をまばたきもせずにジーッとのぞき込んでいる。
 全身が粟立った。私は負けてなるものかと彼女の目を見返し,ぐっとにらみつけると,その瞬間,からだの体温が奪われ,布団の中が氷のように冷えてしまう。布団を頭からかぶって縮こまり,三十分後にふたたび布団からそっと目を出してみると,彼女の視線がくい入るようにのぞいている。とたんにせっかく温まった布団の中がまた氷を抱いたように冷え切ってしまう。窓の外がほのぼのと明るくなり,彼女がいなくなるまで,この一夜の間に四回くらい彼女とにらみあった。
 朝,場長が出勤してきたのをつかまえて,「私は今日の汽車で帰ります。お世話になりっぱなしで申しわけないけれどもやめさせてください」と頼んだ。幽霊の状況を報告したら,君がとり殺されでもしたら私としても困るからということで,すぐに私の要望に応えてくれた。ふつうだったら幻覚を見たんだろうと笑うところが笑わない。この話には後日談もまだまだあるけれど,よりくわしく知りたい人は「山とお化けと自然界」(中公文庫)を読んでください。とにかく私は仕度もそこそこに釜石の地を離れることになりました。


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