PROFILE
にしまる・しんや 大正十二年東京生まれ。東京水産大学卒業。岩手県水産試験場勤務を経て,昭和二十二年農林省入省。日本の探検登山の草分け的存在。ニューギニア等,世界各地の秘境地区で探検・調査を行ない,食糧危機,文明破局論を唱えつづけた異色官僚。五十五年,国の食糧政策に疑問を抱き,食品総合研究所栄養化学研究室長を最後に自主退官。大学講師をつとめる他,環境問題や現代人の生き方をテーマに執筆活動をつづける。作曲,SF小説,油彩まで手がけるマルチ人間。著書に「山の博物誌」「食物の生態誌」「41歳寿命説」など多数。現在,食生態学研究所所長,日本熱帯医学協会顧問,日本山岳会評議員,日本旅行作家協会理事。大叔父は島崎藤村。 |
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幽霊にも足があることがわかりました |
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●昆虫少年から山男へ
私は関東大震災とほとんど同時に生まれました。それで祖父が震哉という名前をつけた。地震がこなければ別の名前になっていたはずです(笑)。少年期は昆虫採集が趣味のおとなしい子どもでした。これは東京といっても青山に住んでいたことが大きい。当時の青山は緑が多くて鬱蒼としていた。後に山登りが好きになったのも,そんなことが影響しているかもしれない。
ただ家庭環境的にはまったく山登りとは縁のない中で育ちました。私が物心ついた頃は父親はからだをこわしていて,母親が日本画家として家計を支えていた。だから子どもたちに手をかける余裕なんてまったくなかった。末っ子の私は放任というか勝手気ままのうっちゃりっぱなしで育ったようなものです。あまりかわいくない子どもだったとも思います。たとえば先生が理科の授業で「これがモンシロチョウだ」というと,「それはちがいます。それはスジクロチョウのメスです」なんて,自分がこうと思ったら相手が先生でも言い返すような子どもでした。小学生の時にはすでに日本に生息する昆虫はほとんど知っていましたからね(笑)。
中学生になると山登りがしたくてたまらなくなった。しかし,周囲には誰も連れていってくれるような存在がない。中学一年がすんだ春休み,甲府の友人宅へ行くという口実で昇仙峡周辺へ数日間の旅をしましたが,これが生まれて初めて,自分の思うままのところへ行けた旅だった。この旅での経験をきっかけに山の魅力に取り憑かれてしまった。
その年の七月には初めて高山帯のある山への縦走をすることができた。八ヶ岳です。今では人だらけですが,その頃はひとりの登山者にも出会わなかった。二千五百メートルを最初に越えた編笠山の山頂では,アサギマダラがガスの中をアッと思う早さで飛び抜けていくのを見たし,高山植物の尾根を歩くのは馬の背でその楽しさを味わった。あの日の感動は未だに忘れられません。以来,その一生を山男として歩むことになりました。
●山男が海の大学に入る
東京水産大学に入学しましたが,なぜ山好きの男が海の大学に入ったのかといぶかる人もいるでしょう(笑)。これには理由がある。私も最初からこの学校に入ろうと思っていたわけではありません。ところが受ける学校の口頭試問でことごとく落ちてしまう。絶対に受かるはずだと確信のある学校ですらそうです。一高の卒業生だった次兄が不審に思い,学校で調べてもらったところ,「君の弟さんはどこを受けても絶対に受からないよ。だって君の弟はアカだって内申書に書いてある。国立,私立を問わず,そんな人間を合格させたら文部省に怒られるもの」と言ったそうです。
これはある出来事がきっかけで当時の担任や校長ににらまれ,それでも考えを改めなかったことからくる誤解というか嫌がらせなのですが,戦前のことですからどうのこうの言っても仕方がない。そこで文部省と関係のない大学を受けるしかないという結論に至ったわけです。兄たちが調べたところ,商船大学と水産大学は文部省の管轄外だという。それで水産大学の化学部を受験したわけです。合格後,「君がどんな思想を持っていてもかまわない。ただ,大学にいる間は何もするな」と試験官からも言われましたが,こちらはもともとアカでも何でもないわけですから「はい,わかりました」って(笑)。
大学に入ってさっそく山岳部をつくった。水産大学にはそれまで山岳部はなかったんです。七,八人集まったんですが,活動半ばにして学長の耳に入ることになり,「海の男が集まってる大学に山岳部はふさわしくない」ということでつぶされてしまった。もちろん現在の水産大学には山岳部はあります(笑)。それでひとりで山に登っていた。戦争中でしたが,編笠山や権現岳あたりの人のまったく来ることのない山の中で黙ってゴロゴロしては楽しんでいた。
戦争はますますひどくなっていったけれど,山の中にいる間は何も考える必要がない。いずれ遠からず南海の涯に連れていかれて,どうにかなってしまうかもしれなくとも,くよくよしても始まらない。意識するほどではないけれども,できるだけ山や木や草や鳥や虫たちを,少しでも見ておきたいという気持ちもないとはいえませんでしたね。
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