第10回 女優 原ひさ子さん |
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●何もできないところが素直でよい!? 昭和に入って間もなく,静岡の母と東京の伯母が相次いで亡くなりました。伯父は商売のこともあり,私にとっては三人目の母を迎えることになりました。この母がとても頭の良い,心のやさしい人で,「女もこれからは手に職をつけなければいけない」という考えをもった,当時としては進歩的な人でした。私も母の話を聞きながら,次第に外へ出て働いてみたいと考えるようになってきました。 ある日のこと,新聞を何気なく読んでいたところ,「前進座」の座員募集の広告が目に止まりました。当時,歌舞伎界の古い因習を打ち破ろうという若い人たちが集まって,前進座という劇団を作ったという記事を何かで読んだことがあり,心ひかれるものがあったんです。前進座ができて三年目くらいの頃だと思います。 そこで,母にだけ相談して試験を受けに出かけました。もっともそのときは女優になろうなんていう気はまったくなく,裏方さんや文芸部にでも入れてもらえたらいいなという気持ちでした。ところがこのときの募集は女優さんの募集だったんですね。試験を受けにきている人たちは,皆若々しくきれいな娘さんばかりで,途中で逃げて帰りたくなりましたね(笑)。試験官には,久保栄氏,村山知義氏など,錚々たる新劇界の演出家がおられました。 そこで本を読まされまして,本は大好きで始終読んでいたものですからすらすら読めました。「君はなまりがないけど生まれはどこ?」と久保さんに聞かれたことを覚えています。「ほかにも何かお稽古ごとをやっていますか?」と聞かれ,「長唄を少しだけ」というと三味線をもってこられ,越後獅子を少し弾いたと思います。パントマイムのほうは何が何やら訳もわからずにいわれたとおりにやっただけでした。 数日たって,入座許可の通知がきてびっくりしました。絶対に落ちると思っていましたから。入座してから試験官の方に合格した理由を尋ねたところ,「君は何もできないところが素直でよかったんだよ」といわれました。そのとき合格した人が四,五人おられましたが,私はきっとビリのほうだったんでしょう。現在のようにダンスや歌,水着審査などがあったら絶対にだめだと思います(笑)。 しかし,合格してからが大変でした。女優なんていう仕事はとんでもない仕事と思われていた時代ですからね。芝居好きの伯父も嫁いだ姉も許してくれましたが,静岡で銀行員をしていた兄が烈火のごとく怒りましてね,こちらがいくら手紙を出しても返事をくれないんです。以後三年間絶縁されました。入座してからは教えられるとおりに演劇の勉強を一生懸命にしました。スタニスラフスキー理論とかリアリズムとか,耳にする言葉すべてが新鮮でした。先輩には浦辺粂子さんもいました。 ●最初にもらったお給料は十五円 初舞台は新橋演舞場でした。新橋演舞場を皮切りに大阪浪速座から,名古屋,九州など,大きな荷物を抱えて旅公演をつづけたんですが,私はこの旅公演というものが大好きでした。現在とちがって家族旅行なんていうものが一般的でない時代です。それまで旅行らしい旅行なんてしたことがありませんでしたから,もう日本中をまわれて楽しかったですね。 最初にもらったお給料は十五円でした。前進座そのものが貧乏でしたから高い給料とはいえないと思いますが,私にとっては初めて自分が働いて得たお金ですから,大金をいただいたような気がしました。 二十九歳のときに,座員仲間である石島房太郎と結婚しました。私は小さくてなよなよしていますから,旦那さんになる人はがっちりとした大柄な人がいいと思っていたんです。主人はその点ぴったりで,性格もざっくばらんないい人でしたね(笑)。その頃,前進座が吉祥寺に念願の稽古場と座員や家族が一緒に住める共同住宅を造りまして,私たち夫婦もそちらに移りました。 当時の前進座は,歌舞伎や股旅物,現代劇の三本立てで公演をつづけておりました。現代物では「石川啄木」を上演しましたときには啄木の妻をやらせていただきました。この芝居は大変好評を博しましたね。 前進座は映画にも積極的に取り組んでいました。山中貞雄監督と前進座が共同で創りあげた作品は「人情紙風船」を筆頭に,日本映画の傑作にあげられているものばかりです。私が特に印象に残っているのは,長谷川伸先生原作の「街の入墨者」という作品です。この作品は女優を使わず,河原崎国太郎さんの女形でやりたいという山中監督の熱意でスタートしたんですが,マイクを通すと国太郎さんの声が男で,どうもうまくないということで,声だけ女優を使おうということになりました。 私が選ばれてすぐ京都まで呼ばれ,撮影所に入りました。国太郎さんが芝居をしている前に座らされ,一カット終わると,すぐそのとおりの台詞をいうのです。口が合わなくなりますから間違いは許されません。私も必死でしたが,国太郎さんもさぞやりにくかったと思います(笑)。
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