新・あの人に聞きたい私の選んだ道
第13回
西口正さん
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PROFILE
1947年、兵庫県芦屋市生まれ。慶應義塾大学を卒業後、大手損害保険会社に勤務。営業職を長年経験したのち、独立して塾を開業。現在は日本一の塾激戦区、千葉県船橋市津田沼にて新学フォーラムを主宰。学校教師の子弟が数多く通う塾として人気。また、長年の経験でつちかった独自の指導法や教材を書籍として数多く出版。その数は約100点にものぼる。

計算が得意な学生時代
 私は兵庫県芦屋市で生まれ育ちました。実家は商売をしており、私もよく手伝いをしていました。電卓のある時代ではないですからそろばんを使って計算をしていましたが、うまくなかったので、かえって暗算が得意になりました。おかげで、小学校高学年では算数のテストはすべて満点でした。中学校に入ってからも数学が得意で、テストはほとんど満点でしたね。
 当時の数学の先生は「あいつはこのままなら東大に行ける」と言ってくださっていたそうですが、一方で音楽の先生には「お前このままだと行く高校ないよ」と言われるほど音楽は苦手でした。私は得意・不得意がはっきり分かれるタイプで、5段階評価の通知表に1~5がすべてそろっていました。「通信簿のデパート」なんて呼ばれていましたね(笑)。
 高校に入ってからもある程度勉強はできたので、関西の国立大学を目指していました。模試の成績もよく、志望校の合格可能性も75~99%でしたが、結局志望校には落ちてしまいました。そこから2年浪人したのですが2年とも志望校には受からず、これ以上親に迷惑をかけられないということもあり、運よく合格した慶應義塾大学に進学しました。
 2年も浪人したのにもかかわらず大学では遊びほうけていました。当時は学生運動が盛んで、1年生の6月ごろ、学校の前にバリケードが張られてしまって学校に入ることができなくなってしまいました。仕方がないので覚えたての麻雀ばかりやっていましたよ。
 そんな様子ですから就職のことなんてまともに考えてもいませんでしたが、おぼろげに税理士にでもなろうかなと考えて、4年生のときに近くの税理士事務所で勉強をさせてもらっていました。本格的な勉強ではありませんでしたし、就職なんてしなくてもいいやと軽く考えていました。
 アルバイトは家庭教師をしたり、地元に帰って肉体労働をしたりといろいろなことをしました。家庭教師ではふたりの生徒を見ました。ふたりは無事に合格し、ご家族と喜びを分かち合ったときはやりがいを感じましたね。


損害保険会社で営業マンに
 そんななか、友だちに「損害保険会社へ訪問に行くんだけど、どうせ暇だろうから一緒に来ないか」と誘われました。その通り暇だったので一緒に行って話を聞いてみると「損保はいろいろな業種の人とお付き合いができて、360度ものごとが見られるよ」という話で、私は面白いなあと思いその会社の就職試験を受けることにしました。すると私が受かって誘ってくれた友だちが落ちてしまいました。まるでアイドルのオーディションのような話です(笑)。その友だちものちほど他の損害保険会社の採用試験に合格しました。
 はじめはその会社を3年くらいで辞めてまた税理士の勉強をしようと思っていたのですが、2年目のころにオイルショックがあって物価が上がったために、なんと給料が1年目のときのほぼ2倍になったのです。3年目もかなり給料が上がりましたし、さらに当時損害保険会社はボーナスが年に3回もありましたから、ずるずると辞められなくなりましたね(笑)。
 その損保会社には27年間勤めましたが、そのうち21年は営業をしていました。営業は新しく損害保険の契約を取るのが仕事です。営業をしているころは土曜日、日曜日も休むことがなく、平日も早朝に出かけて深夜に帰ることが多い生活でした。
 当時は「半ドン」といって、土曜日は午前中だけ仕事がありました。やがて土曜日も完全に休日になるのですが、営業をやっていると、営業先の相手が土日にしか会えないということもあって、会社からの呼び出しや自発的な出社で結局仕事をすることが多かったですね。
 私のいた会社には、当時営業職だけで1100人もいました。営業部というのは成績がものを言う世界ですから、かなり競争が激しく、裏では営業職同士の足の引っ張り合いもありました。
 私は営業職としてはかなりいい成績を出せていました。しかし、無理に無理を重ねる生活であったことと、人間関係のもつれから21年目にして体調を壊してしまいました。


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