新・あの人に聞きたい私の選んだ道
第9回
ヨシタケシンスケさん
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PROFILE
1973年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院芸術研究科総合造形コース修了後、ゲーム会社のデザイナーを経て、スケッチ集や、児童書の挿絵、装画、イラストエッセイなどの作品を発表。『りんごかもしれない』(ブロンズ新社刊)で、第6回MOE絵本屋さん大賞第1位、第61回産経児童出版文化賞美術賞などを受賞。2児の父。

自宅の2階がアトリエ。「ここが実家なんです。子どもが生まれ、僕が生まれ育った家で,次の世代を育ててみたいと思いました。」
おとなしくて工作好きな子ども
 兄妹は姉が1人、妹が2人います。元々友だちはあまり多くなくて、休み時間も机でじっとしているようなおとなしい子どもでした。2つ上の姉は勉強も絵も得意で、どんなことでも賞をもらうような人でした。姉には何をやっても敵わなかったので、チャレンジしようという気持ちが持てなかったんです。
 そんな姉も、工作だけはやらなかったので、僕が物を作ると母がとてもほめてくれました。それがうれしくて、物を作ることが好きになりました。


夢を決められない思春期
 何となく物作りは良いなあという希望はありましたが、すごく主体性のない子どもだったので、はっきり自分の夢を表明することはあまりありませんでした。小学生の時は自分の夢を書かされるようなことも嫌でした。小、中学校で将来の道筋を決めろと言われるのも残酷な話だと思うんです。今考えれば大人の都合だったとわかるのですが、当時は将来の夢がない自分はいけないのかなと思っていました。
 すると将来の目標を持っている友だちが光り輝いて見えるわけです。サッカー選手のような大きな夢がある友だちがうらやましく、夢のない自分はよくない、嫌だなあという思いはずっとありました。とは言え自分のことなのでいつかは決めなくてはいけないけれど、具体的にどうしたらいいのか、とにかく自分に自信がなかったので、わかりませんでした。
 だから中学校や高校で進路を決める時は迷いました。高校受験の時も、先生に「この成績だったらここの高校に行けるんじゃない?」と言われたからそこに行く、という感じでした。願書を出しに行く日までその高校の場所を知らないくらいで(笑)、そのくらいどうでも良かったというか、リアルな感じがしませんでした。


反抗期がないことに不安
 落ちこぼれるでも問題を起こすでもない、何の印象もない生徒だったと思います。怒られるのがすごく怖かったんです。すごく厳しい親だったわけではないのですが、ほめられたいという気持ちと、怒られたくないという気持ちを勘違いしていた時期があって、とにかく怒られなければいいんだと考えていました。親や先生を困らせることはほぼしませんでした。反抗期がなかったんです。
 小中高と反抗期がないことは、自分でもこれは危ないなと感じていました。周りの友だちは成長していくなかで大人と衝突して自分の形を作っていくけれど、私は、学校の決まりも親の言うこともこういうものだろうなと思っていました。「制服は着なきゃいけないだろうし、親の言うことは聞かなきゃいけないし…」と考えると、自分のなかで反抗する理由がないんです。はいはいと言われた通り過ごしていたけれど、周りを見るとどうも少数派だと気づきます。本当は大人と衝突して自分の形を作っていかなければいけないのに、人に言われたまま、そのことに疑問すら抱かず育っていくと、そのうち壊れるのではないか、と自分で怖かったことをよく覚えています。


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