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| ●母に背負われ戦火を逃れる
生まれは長崎市です。中心街である浜町、地元では「は」が省略され「まんまち」と呼ばれている一帯のほど近くです。観光名所の眼鏡橋から寺町へと続く辺りに今もある産婦人科病院で、10歳年上の長女、7歳上の次女、5歳上の長男に続く末っ子として昭和20年1月24日に生まれました。 戦争のまっただ中で、その頃一家は、父の仕事の関係で中国にいたのですが、中国に父がひとり残り、私を産むために母たちは実家である長崎へ戻ってきたそうです。その長崎には三菱の長崎造船所があるため、激しい空襲に見舞われました。母は子どもたち3人の手を引き、生まれたばかりの私を背負いながら、下水溝に潜り込んでひたすら逃げ回ったと聞きました。 激しい空襲から逃れて島原市へ疎開したところで、長崎市に原爆が投下されました。後に母が実家に戻った時には一帯が焼け野原になっていたそうです。それでも原爆は長崎市の中心部から少し離れたところに落ちたため、その延焼は家の近くを流れる川で止まり、川沿いに建つ実家は奇跡的に被害を免れたそうです。 そして中国から戻った父も加わり、実家での暮らしが始まります。私はこの頃の記憶はありませんが、3歳くらいまでそこにいたようですね。その後、人を頼って転々とし、私が4〜5歳の頃には東京に出てきました。記憶があるのはこの辺りからです。世田谷区の八幡山という、その頃は辺り一面が田んぼで、大きな病院の横に軒を連ねる民家のひとつに、一家で身を寄せることとなります。 |
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●明るく目立ちたがりな少年時代 子どもの頃からとにかく明るい性格で、人前に出て何かをするのが大好きでした。田んぼで作業している人たちの前で面白おかしく踊りを踊ってみせて、農家の方から母に「農作業に差し支えるから止めさせてくれ」とよく苦情がきたそうです。お調子者というか、よく言えば愛嬌のある子どもですかね。次男坊の私は、父母から可愛がられた記憶しかありません。親とすれば長女、次女に続いて待望の長男が生まれ、もう充分だと思っていたのかもしれません(笑)。長男は大きな期待をかけられましたが、私には過度な期待もなく、自由に育ちました。普段は怖い父でしたが、よく「腰を揉め」と寝そべる父の背中を、頭上につたう鴨居にぶら下がりながら、足で踏んでマッサージしたことを覚えています。また父は多趣味で、今の私が落語好き、将棋好きなのも父の影響によるところが大きいですね。 ●テレビドラマ『月光仮面』に憧れ 弁護士という今の仕事に就くきっかけとなったのは、月光仮面への憧れでした。彼のように人の役に立つ正義の味方になりたいと憧れましたが、いつしか現実的な面、例えば彼には生活感を感じないことや、金銭面はどうしているのか…などと、子ども心にも冷静な思いを抱くようになります。 そして私が高校生の頃には『ローハイド』『名犬ラッシー』『パパは何でも知っている』といった、アメリカの良質なテレビドラマが数多く日本でも放送されるようになりました。どれも夢中になりましたが、とりわけ『弁護士ペリー・メイスン』というドラマが私の心を鷲掴みにしました。その段階では真っ黒に近い被告人の弁護を引き受け、華麗な弁論で颯爽と逆転無罪を勝ち取り、おまけになぜかいつでも傍聴席に来ている、真の悪党まで捕まえてしまう。「これこそ私が求める真の正義の味方だ!」と興奮しました。月光仮面と違い、きちんと報酬はもらっているようだし、秘書だってとびきりの美人です。これはいいぞと弁護士という仕事に魅力を感じ、そこから持ち前の短期集中型勉強で、中央大学の法学部へと進学します。 この頃は進路選択にほぼ迷いがなかったのですが、他にもうひとつ、落語家という職業にも魅力を感じていました。そのこともあり、大学では落研に所属したのですが、まず落語には着物がないと話になりません。しかし親に落語をやるから着物を買ってくれ、とも言い出せず、やむなく自前の浴衣で落語に挑戦しましたが、今ひとつ迫力なく早々に挫折しました。ここで落語家の道は閉ざされて、私には弁護士の道しかない、と意志を固めます。
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