第3回 映画監督 清水崇さん |
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●映画に関わる仕事を模索する日々 高校に入った頃は、とにかく映画やドラマに関わりたい気持ちが強く、演劇部を立ち上げました。演技にも興味はありましたし、いずれ監督を目指すにしても、演者に演技を指導する際に必要な知識を身につけたかったんです。しかし誰も基礎も知らない、顧問もいないという状況でうまくいかず、新聞広告で見つけた演劇レッスンの場に通い、将来の映画関係の道を探り始めます。 もう大学で勉強するつもりはなかったので、進学の意思はありませんでしたが、両親は金は出すから大学へ通えば、と言ってくれました。それならば芸術系に、と唯一知っていた日本大学芸術学部を受けましたが不合格。しかし近畿大学にも新しく演劇学科ができたらしいと聞き及び、演劇ができて、親の望む大学生にもなれるなら、と受験し合格しました。 大阪で始めたひとり暮らしはとても楽しかったですね。演劇が中心の生活で、芝居の勉強から舞台装置や照明など、すべて自分たちで作り上げる日々。そのうちに芝居よりも実は映画をやりたい、という同じ志をもつ仲間と知り合い、彼らと持ち回りで監督を担当して作品を制作しました。また大学側にかけあって映画の授業も新たに作ってもらい、ウルトラマンシリーズなどを手がけた脚本家の石堂淑朗さんが授業をしてくれたこともありました。とても充実していました。 しかし私的な理由で、親にも黙って大学を2年で中退します。まだ何も身についていない状態で世間に飛び出す形になった私は、もう映画の道しかないと決心しました。すぐに撮影所のある京都に引っ越して「何でもいいから仕事をください」と打診すると、残念ながらその撮影所では人手が足りていると断られたのですが、系列映画館のアルバイトを紹介してくれました。 仕事があったことには感謝したものの、映画館での仕事は自分が希望している映画を作る仕事とは違います。このままこの仕事を続けていても、先には繋がらないな、といつも焦りを感じている毎日でしたね。 ●地元・群馬で念願の映画現場に そうして10ヵ月ほど過ごした頃、群馬のローカル新聞に、県が全予算を出して制作する映画のスタッフを、県民から募集するという記事が掲載されました。これなら映画現場に近づける、とすぐに連絡し、再び「どんなことでもする」とアピールして潜り込むことに成功しました。 晴れて希望の道に進みましたが、甘くはありません。その時の直属の先輩がものすごく厳しく、殴る蹴るは当たり前。この状況にも、ふがいない自分に対しても悔しさが募る私は、この先輩も監督志望だと知り、絶対コイツより先に監督になってやる、と闘志を燃やしながら過ごしました。 そのうちスタッフに、上京したいから映画の仕事を紹介して欲しいとお願いし、私は東京へ出ました。様々な映画現場で小道具や雑用をこなしながら、自分が監督志望だということを周りに話すうち、ある日助監督を務める機会を得ることができました。ちなみにその機会を与えてくれたのが、先ほどの厳しい先輩だったんです。その頃は恨みしか感じていなかったのですが、こうして何かと目をかけ、助けられていたんでしょう。今思えばその人のおかげで発奮できたわけですし、感謝しなくてはいけませんよね。 ●助監督から監督への大きな壁 こうして助監督までは進めたものの、当時は仕事もできないくせにただ生意気だったので、いずれ潰されると周りには思われていたでしょう。それに、たとえできる助監督であっても、監督になるにはチャンスも必要ですし、そのチャンスというのは自分で生み出さないと、待っていて自動的に監督になれるという世界ではありません。映画というものは当然出資も絡むビジネスです。一人の監督に何億というお金を託すわけですから、堅いところ、かつてヒットを生んだ監督に、という考え方があるのも当然です。 そんな状況で、私はあえて生意気を言うことで自分を追い込み、退路を断って自分で道を切り開くしかない状態にしていたんだと思います。だからこそ24〜25歳の助監督時代は、こんな状態を続けていて、いったいいつ監督になれるのだろうかと悶々とする日々でした。しかし、30歳までは迷わず続け、30歳を迎えた時に自分の中でまだ可能性ややる気があれば、その段階でもう一度本気で悩んでみようと決めました。 不安定な立場の焦りに加え、機材や照明なども勉強し直したい思いから、現役の映画監督が講師を務めることを売りにしていた、映画美学校の講座に通い始めました。 そこで私の身に劇的な展開が訪れます。ある日自分の持っている伝手だけを使い、3分の作品を制作するという課題がありました。その作品の出来で80人ほどいる受講生の中から、卒業制作作品を監督する上位4人を決定するというのです。脚本や映像センスに加え、人をまとめる能力など監督としての総合的な力量を図る目的だったのでしょう。 私は脚本の評価こそ高くなかったのですが、本来サスペンスもののつもりが、直前にホラーものに変更して撮影した映像を提出すると、講師陣や受講生のみんなから高評価をいただきました。それでも卒業制作を監督する4人には選ばれずに、いちスタッフとして参加することになります。 すると後日、講師を務められた黒沢清監督に事務所へと呼び出されたんです。てっきり「お前は生意気だ」と叱られるとビクビクして訪れた私に、黒沢監督は「キミの映像はもう卒業制作というレベルを超えている。プロとして作った方がいい」とおっしゃるんです。その頃黒沢監督は、関西のテレビ番組でオムニバスのホラーものを手がける予定になっていて、その中の30分枠に私をプロデューサーに推薦する、と言われました。当然ながら助監督ですねと問うと「いや、監督だよ」との言葉に、ただただ絶句ですよね。 しかし、いざプロデューサーに会ったところ、26歳の若造で助監督しか経験のない私に、プロデューサーは不安を覚えたようで30分枠のはずが3分のショートを2本、とトーンダウンしてしまいます。もうやる気満々でいたので悔しくて、こうなったら他の監督が手がけるショートより面白いと言わせてやる、とまたも負けん気に火がつきました。それが商業ベースでホラー作品を手がけるきっかけとなった『学校の怪談G』の短編です。 そして、この3分の作品を見た別のプロデューサーからVシネマを、と声をかけていただいたことが私の代表作『呪怨』に繋がります。しかし中学生くらいまではホラーが苦手でまともに見ることもできなかった私が、初めて手がけたジャンルがホラーものだった、というだけでずっとホラー街道を進むことになるとは、自分でも思いませんでした。
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