第66回 俳優 仲代達矢さん |
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●ボクサーか俳優か 高校卒業後の進路は大いに悩みました。どうしても大学へ行きたかったのですが、お金がなくて自力ではとても無理でした。不況で大学を出ても就職難の時代です。僕は大学を出ないで生きていくためにはどうしたらいいだろうと真剣に考えました。生活のために学歴のない社会に飛び込もうとしたら、ボクサーか俳優ぐらいしかありませんでした。そこでボクシングジムにも数ヶ月間通ってみたのですが、殴られるのがどうしても嫌でした。それで自分には役者しかないと思ったのです。 ただ何度も申し上げるように、僕は小さい時から人前で何かをやるのが苦手でした。学芸会にすら出たことなかったのです。父が亡くなった日がちょうど学芸会の日で、学芸会に出る唯一のチャンスでしたが、当然ながら出られませんでした。そんな僕が人前に出て役者をやろうと思ったのですから、今考えると末恐ろしいですね。 俳優になるにしても、僕はアカデミックに勉強したいという思いがありました。しかし、そうした俳優学校というのはその頃はありませんでした。そんなある日、俳優座の俳優養成所の入学案内を目にして「これだ」と思ったのです。高校夜間部の三年の時です。養成所の試験を受けて、落ちたら俳優もあきらめるつもりでした。 試験は三次まであって、三十倍ぐらいの競争率でした。試験官の前では膝がガクガク震えて、何をやったのか全く覚えていません。そんな調子ででしたので、一次試験で落ちたなと思っていたら、一次も通り、その後の二次、三次もどうにか通ったのです。後で知ったのですが、僕の入った養成所の四期生では、試験の内容はどうでもよくて、とにかく背の高い人を取るという方針だったそうです(笑)。 ●養成所での俳優修業 養成所に入ったものの、講義は一般の大学と同じように昼間でした。しかたがないので高校時代とは逆に夜働かなければなりません。僕は目黒や大井町のパチンコ屋に住み込みで働くことにしました。その頃のパチンコ屋は今とは違って、手で一つ一つの玉を弾く台です。パチンコ台の裏に入り込んで補充をしたり、掃除をしたりするのが主な仕事でした。そして夜中の三時頃まで残務整理をして、三時間ぐらい寝てから六本木の俳優養成所に通っていたのです。そんな生活が二年間続きました。 養成所は三年制で、男女併せて一クラス五十名でした。俳優学校だから、さぞかし演技を指導してくれるのかと思ったら、最初の一年間はフランス語や英語、音楽鑑賞、演劇鑑賞などの座学ばかりでした。演技を教えてくれたのは二年生の後半からです。 卒業後は五十名がいろいろな所へ散っていきました。当時、俳優座養成所は演劇を「新劇」といって、これを全国に広めなければいけないと考えていたのです。卒業生をそれぞれの出身地へ帰して、日本列島の各地で演劇文化を興すというのが、養成所を作った千田是也さんの一つの目的でした。もっとも、地方にはそうした演劇文化の受け皿がなかったので、卒業生のほとんどは東京に残ったようです。 五〇名の卒業生の中から、約二名が俳優座に入れることになっていました。僕は月謝を納めるのも遅れるし、夜中まで働いていて遅刻はするしで、とても入れないだろうと思っていました。ところが、たまたま幸運にもその二名の中に入ることができたのです。ちなみに、その時に僕と一緒に入ったのは二〇〇四年に亡くなった中谷一郎です。 ●電車の中で戯曲を朗読 俳優座に入ってからは舞台や映画に出演するなど、比較的順調でした。ただ、それまでが本当に人生のどん底でした。父が亡くなってから俳優になるまでの十代のうちに、僕は世の中の辛酸を全て舐めた気がします。 俳優座時代は普通の人が一日でできることが、僕には一週間ぐらいかかりました。勉強しないと追いつかないのです。器用な人には次々と追い抜かれるので努力は惜しみませんでした。 引っ込み思案の僕が意を決して取り組んだのが、京王線の車内での朗読です。当時は傷痍軍人が電車の中でアコーディオンを弾いて募金活動をしていました。それをヒントに、「実は私は俳優の卵です。人見知りする性格なので、ちょっとしゃべらせてください」と断って、戯曲や小説、詩などを朗読したのです。それはずいぶんやりました。乗客のみなさんは、疲れているのにやめてくれないかというような顔をしていましたね(笑)。 当時、日本の巨匠と言われた黒澤明監督や小林正樹監督など、そうした人との出会いに恵まれたのも大きかったと思います。あの頃は六社協定というのがあって、役者は各映画会社と専属契約を結んでいました。たとえば東宝の役者が東映や松竹など、他社の映画に出ることはできませんでした。ところが、僕はどこの映画会社にも属していませんでした。監督指名ということで、俳優座という新劇からどの会社の作品にも出演できたのです。いわばゲリラ作戦でした。 ただ、当然ながらどの映画会社も自社専属のスターを使いたいので、僕が映画に出た当初は脇役や敵役ばかりでした。転機が訪れたのは、小林正樹監督の「人間の條件」という映画からです。足かけ四年で、初めて主役の座を射止めました。ですから、小林監督は僕にとって恩人です。
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