第66回
俳優
仲代達矢さん
2005年3月号掲載


PROFILE
俳優。一九三二年、東京都生まれ。都立千歳高校定時制卒業後、一九五二年に俳優座養成所に四期生として入所。一九五五年、イプセン作「幽霊」のオスワル役でデビューし、新劇新人演技賞を受賞。古典から時代劇、新作まで幅広く活躍。映画も「人間の條件」「天国と地獄」「影武者」など、日本を代表する作品に多数出演。また、一九七五年から俳優を育成する「無名塾」を妻の宮崎恭子氏(故人。女優・脚本家・演出家)と主宰。役所広司氏、益岡徹氏、若村麻由美氏などを輩出する。一九九二年にシュバリエ芸術文化勲章(フランス)、一九九六年に紫綬褒章、二〇〇三年に勲四等旭日小綬章を受章。

俳優座養成所時代。右が同じ四期生の佐藤慶氏。
サラリーマンになるのが夢だった
 僕は、ついこの間まで俳優には向いていないと思っていました。生活のためにしかたなくこの世界に入ったのです。実に不向きなところに入ったなと思いながら、今日まで何とかやってきたというのが正直なところです。もっとも、ここまでくればそんなことも言っていられませんね(笑)。
 とにかく人前に出るのが昔から苦手でした。舞台はどんなに大勢のお客さんの前でも客席とは離れているから平気なのですが、パーティなどは未だに慣れません。役者のくせに駄目ですね。
 高校生の頃はこう思っていました。大学を出て、サラリーマンになって、結婚して、子どもを二、三人生んで、大学に入るまで育てる。そういう平和で地味な人生を歩むのが夢でした。


苦労を重ねた少年時代
 小学校時代は当初、千葉の津田沼(現・習志野市)に住んでいました。父を亡くして、小学四年生の時に母と姉、弟、妹の一家五人で東京へ出てきたのです。渋谷の青南小学校に転入したものの、戦争中でしたので、しばらくすると東京郊外の仙川にある昌翁寺へ疎開しました。
 疎開先で指導してくださった担任の江良先生はそれまで出会った先生方とは全く違いました。江良先生は子どもたちと接する時は実に公平でした。疎開中、余裕のある家の親は、自分の子どもに食べさせるために食糧を差し入れしていました。残念ながら僕の母は一度も訪ねて来ませんでしたが、江良先生はそうして差し入れられた食糧を全部集めて、生徒一人一人に公平に分配したのです。
 のちに僕が三十一歳で「ハムレット」を演じると、先生は楽屋を訪ねてきてくださいました。「まさか仲代が役者になるとは思わなかった」とおっしゃっていましたね。以来、先生はお亡くなりになるまでずっと、僕の舞台や映画を見に劇場へ足繁く通ってくださいました。
 昭和二十年三月に青南小学校を卒業し、その年の八月十五日に終戦を迎えました。終戦後は外国映画が日本にたくさん入ってきました。それまでは「鬼畜米英」などと言って、文部省推薦の軍国映画しか見たことがありませんでした。ところが、終戦を境に大人たちが急に親米派になったのです。大人というのは信用できない、と子供心に思ったのを覚えています。
 小学校を卒業すると、北豊島工業学校に進み、のちに世田谷の東京重機という学校に転校しました。どちらも中学校です。ちょうど学制が旧制から新制へ切り替わる頃でした。
 高校は都立千歳高校の定時制です。昼間は烏山中学校の用務員をして、夕方から高校に通っていました。生徒はみんな勤労少年です。昼間働いて疲れているので、ほとんど勉強はしませんでした(笑)。当時の先生方もご理解があったのでしょう。生徒が試験の答案を白紙で出したり、授業中に寝ていたりしても怒られませんでした。
 高校生活で一番思い出深いのが「真夜中のバスケット」です。これは自著の中でも紹介していますが、ある日、家庭の事情でバスケットの名門校からレギュラーだった生徒が転校してきたのです。当時、学校は夜の十二時頃まで体育館の照明をつけたままにしてくれていました。そこで授業が終わると、毎晩その生徒を中心にヘトヘトになるまで夢中でバスケットをやったのです。いつもすきっ腹を抱えていましたが、夜中の二、三時間だけは自分が学生であることを実感できましたね。


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