第63回 作家 松谷みよ子さん

「私は坪田先生の晩年の小説がとても好きです。日常を書いていながら,読者を非日常の世界へ連れていって,足元には奈落が口を開けているような怖い小説があるのです」
坪田先生との出会い
 疎開先でノートに童話を書いていると,友人から一通のハガキが舞い込みました。「おマツも童話を書いているそうだが,作家の坪田譲治先生が野尻湖にいらっしゃるから一度お目にかかったらどうか」というのです。早速,手土産にマクワウリを背負って,兄と一緒に先生のお宅にうかがいました。さらにその数ヶ月後には,自分で書いた童話のノートを先生にお渡ししたのです。
 それから半年ぐらいして,私は東京のご自宅に戻られた坪田先生を訪ねました。すると,先生はそのノートが引っ越しの荷物にまぎれてどこかへ行ってしまったとおっしゃるのです。私はそんなこともあろうかとノートを全部写していたので,「同じものを持ってまいりました」と,同じように書いてあったノートをお渡ししました。先生もこれにはびっくりされて,「明日いらっしゃい。それまでに読んでおきます」とおっしゃいました。次の日に再びうかがうと,「生原稿でこれだけのものを読んだのは初めてです。すぐに雑誌を紹介しましょう」と,一編の作品を雑誌に掲載してくださいました。このように,坪田先生に出会えたことは私にとって非常に幸運だったと思います。
 それから先生の許へうかがうようになると,先生は「あなたには文学のお友達がいなければいけません」と,門下の早稲田大学の『びわの実』の人に私を紹介してくださいました。そして,みなさんが集まる時には必ず私にもお声をかけてくださったのです。以来,今でもみなさんとは親しくさせていただいています。
 当時は坪田譲治,小川未明,浜田広介といった大家の先生の本だけで,新人の本は出ない時代でした。それを坪田先生は「松谷さんの作品と抱き合わせでなければ自分の本は出さない」と出版社におっしゃったのです。先生のおかげで私の作品が本になり,私は新人賞を受賞しました。
 新人賞をいただいた晩に,私は坪田先生からとても長い手紙をいただきました。
「あなたは若くして世に出た。だからこれから苦労をなさるでしょうけれども,文学の道というのはやりがいのある仕事です。そこから離れてはいけません。ずっと書いていなければいけません。まず,いろいろと原稿を頼みに来てもすぐに引き受けてはいけません。傑作ができるかどうか考えて,ある時は断りなさい。それも直接会ったり,電話したりするといろいろと差し障りがあるのでお手紙でお断りしなさい」という文面でした。
 このように,まず私は先生から原稿依頼の断り方を教わったのです。ですから,私は原稿依頼が来るといつも返事を渋ります。実は長い間,先生の手紙のことを忘れていたのですが,ある時ふと気がついたら,先生の教えが身についていたのです。現在,先生の手紙は長野県信濃町にある黒姫童話館の中の,私の作品コーナーに展示されています。今でも私の大切な宝物です。

「龍の子太郎」誕生秘話
 当時,私は職場で人形劇のサークルを作っていました。そこへ指導に来ていたのが,のちに夫になった人でした。
 結婚を機に,私は葛飾の金町に家を一軒借りました。ところが結婚前に結核で倒れ,三年間療養しました。途端に人形劇団の仲間たちが集まってきて,その家に一緒に住むようになったのです。そのまま劇団の活動拠点になってしまった新居は,みんなが相撲を取るので畳が穴だらけでした。おまけに,米屋から米や味噌を借りてくるという借金だらけの生活です。
 仲間の中には,のちの漫画家・白土三平さんもいました。男女が代わる代わる炊事当番をしましたが,彼が当番の時はいつも野菜を刻んだおじやでした。ある時,彼が鍋の中からナメクジをつまみ出したのには閉口しました(笑)。
 前々から夫は地方の村を訪ねてお話を聞く旅に行こうと言っていました。民話の採集を「採訪」といいます。ずいぶん前から彼はこう言っていました。「ロシア民話の主人公はイワンだ。イギリスの民話の主人公は『ジャックと豆の木』だから,ジャックかな。では,日本の民話の主人公はというと太郎だ。もっとも桃太郎は侵略戦争のシンボルとして大変活躍したから,桃太郎は駄目だ。だから民衆の太郎か,農民の太郎を探そう」。
 私が退院して結婚するとすぐ,私たちは採訪の旅に出ました。すると,幸運にも信州で太郎に出会うことができたのです。信州の中塩田の炭屋のおじさんからこんな話を聞きました。
 このあたりに独鈷(トッコ)山というギザギザの山があり,お寺があった。そのお寺の坊様の所に夜な夜な女が通ってくる。その女がどうも怪しいので坊様が針に糸をつけて女の着物の裾に刺し,次の日にその糸をたどってみると,大蛇が赤ん坊を生んで苦しんでいた。赤ん坊の脇の下には鱗のあざが三つあったという。坊さんは驚いて逃げ帰り,赤ん坊は産川という川に落ちて流されてしまった。ずんぶくかんぶく流された赤ん坊は,小泉村の婆様に拾われて小泉小太郎と名付けられ,すくすくと大きくなった。ただ,この小太郎は喰っちゃあ寝,喰っちゃあ寝の毎日でいっこうに働かない。とうとう小太郎が十六の歳に「ちったぁ,婆の手伝いをしろ」と言われたので,小太郎は小泉山という山へ登って山じゅうの萩を二丸けに丸めて両手に提げて帰ってきた。そして「これは山じゅうの萩だから,藤蔓でくくってあるのを切っちゃなんねえぞ」と婆様に言ったものの,婆様は「太郎がそんなどえれえ働きをするはずがねえ」と言って,丸めてあった結び目を切ってしまう。すると,山じゅうの萩だからたまらない。バンバンとはぜ散って婆様も家も吹っ飛んでしまった…。
 喰っちゃあ寝,喰っちゃあ寝の太郎は将来大物になるという話が多いので,私が「小太郎はその後に何かしなかったか」とたずねると,「何もしなかった,これで終わりだ」というのです。
 ところが,松本へ行くと泉小太郎という太郎に出会いました。泉小太郎は母親の竜の背中に乗って,大きな湖の水を北の海に流して広い平野を作ったというのです。小泉小太郎が泉小太郎,大蛇が竜という違いはありますが,私はこの二つの話は恐らく一つの話に違いないと思いました。
 私は木下順二さんの民話の会に太郎の話を報告しました。すると,「それは柳田国男が両方とも見つけて論文に書いている」とおっしゃるのです。私は自分が見つけたものだとばかり思っていたので,がっかりしました。ただ,柳田国男も「もとは一つならん」と言っています。そこで,私はこれを一つの話にまとめようと考えました。しかも日本の典型的な物語として,いろいろな物語を組み合わせながら書いたのです。
 こうしてできたのが「龍の子太郎」です。おかげさまで国際アンデルセン賞優良賞を受賞しました。

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