第47回 数学者 ピーター・フランクルさん

十四歳:全国数学コンテストに優勝した時
「ハンガリーの人口は日本の十分の一しかいないし,経済力も日本に比べればずっと劣っていますが,旧ソ連同様にコンテストとスポーツには力を入れていましたね
国際数学オリンピック優勝
 一九七一年に国際数学オリンピックで金メダルを獲得しました。
 国際数学オリンピックは一九五九年に発足して以来,毎年七月に開かれており,最初は東欧諸国しか参加していませんでしたが,今では世界の五十カ国以上が代表を送るようになり,今年(二〇〇三年)は東京で開催されました。一国につき六名の現役高校生の代表が二日間かけて数学の才能を競うのですが,国中から選抜されて代表になるというのはとても難関なので,代表に選ばれるというだけでも名誉なことです。
 僕の場合はこの代表になったというのが,大学で数学科に進む決心を強めた大きなきっかけになりました。
 金メダルを受賞した時は地元の新聞に写真入りで掲載されました。そのときの父の言葉が印象的なのですが,「今までは人に紹介するときに“お前は僕の息子だ”と言ったが,これからは”僕があなたのお父さんだ”」と(笑)。父は小さな町の医者でしたから,町の人は父のことを知っていますし,僕のこともただ彼の息子というような認識でしたが,新聞の掲載で町の人の僕への接し方が大きく変わりました。ですから,父の言葉は,僕にとっては小さな町から羽ばたく独立への第一歩だと感じられました。
 ところが,大学生になって町の人から「今は大学で何を勉強しているの?」と尋ねられて「数学科で数学の勉強をしている」と答えると,「お父さんやお母さんは立派な医者なのに,なんで医学部に入らなかったの?」とか,「せめて弁護士ぐらいになろうとは思わなかったの?」とか聞かれました。
 巷の人の感覚では数学というのはそんなものでした。今までその町からコンテストの代表者が出たことはなかったし,ましてその代表者が金メダルを獲得したのですから,確かに町のみんなが喜んでくれましたが,数学を職業にする必要はないだろうという感じでした。日本以上にハンガリーでは一般の人の数学への関心が低いのです。


東欧のスポーツと科学
 東欧諸国というと「数学熱」が強いと思われるでしょうが,実際には数学熱ではなくて「学力コンテスト熱」が強いのです。これは共産主義時代の米ソの対立の中で,経済の面でソ連はいいときでも明らかにアメリカには遠く及ばないという状況があり,科学やスポーツの競争に国家が力を入れたのです。ソ連がオリンピックに参加できたのは一九四八年のロンドン大会ですが,その次のヘルシンキ大会からソ連が獲得メダル数でアメリカに負けたことはありません。
 スポーツと同時に,積極的にやったのが科学です。だから,数学,化学,物理学なども一部の人を特別に教育して,国を代表するような世界的な学者をたくさん輩出したわけです。
 今,旧ソ連は解体してしまいましたが,アメリカの主要な大学に行くとどこでもロシア系の優秀な数学者がいます。ロシア革命前の時代から考えると,短い間によくもそこまで,と思います。ノーベル賞の数は,政治的な部分もあって意外とロシアの受賞者が少ないけれども,実際の功績を見ると,ただ最初の人工衛星を作っただけではないのです。
 そうした教育の一つの手段として,東欧諸国では今でも続いている学力コンテストというものを導入しました。才能のある人を早い段階で見つけて,その才能を伸ばすような教育を与えたのです。これを一般の教育と平行してするので,別にコンテストがあるからといって,成績の悪い人が劣等感を覚えたり,学校で何か変な競争意識が生まれたりというようなことは決してありません。先生が自分の生徒を見て「君は化学の素養があるから,もう少しこういった本を読んで全国化学コンテストに出場しなさい」というように,とにかく学問に関してはすべてコンテストがあって,学校が子供たちの興味のあるコンテストに参加させるわけです。
 ですから,子供たちは興味がなかったら参加しなければいいわけですし,参加しなかったからといって別に何も感じないのです。成績が全国トップテンに入ると関連する学科に推薦入学できるので,これはすごくいい制度だと思います。日本でもこうしたコンテストをもっとやって,才能のある人たちの才能をもっと伸ばし,自分の才能に目覚めるチャンスを与える必要があるのではないでしょうか。


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