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●きっかけは学力コンテスト 両親はともにハンガリーの地方都市の医者です。その両親の影響でしょうか,僕も小学校低学年から理数系の学問に関心を持っていました。小学生向けの科学の本のシリーズがハンガリーにもあったので,相対性理論の本なども子供の頃に地元の図書館で借りてきて読んでいました。 そうした理数好きに拍車をかけたのが,いろいろな学力コンテストでした。ハンガリーでは学力コンテストが多くて,僕も市や町や学校で行われた,数学や物理学,化学などのコンテストに出て,成績も良かったので「おもしろい」「もっと知りたい」という気持ちが強くなっていきました。ですから,小学校の頃は医者や,なにかの研究者になりたいと思っていました。 家ではほとんど教科書を開きませんでしたね。母からはよく「家であなたが勉強をしているところを見たことがない」と言われていました(笑)。だからといって勉強が嫌いだったわけじゃありません。基本的には,学校でできる限り先生が言うことを一所懸命聞いて覚えましたね。 それ以外にもいつも何かに熱中していました。ある時は図書館で借りてきた少年向けの物理学の本を読破したり,ある時は親の本棚の歴史の本を調べたり,ある時は友達から借りた数学パズルの本を一所懸命に解いたりしていました。特に数学は姉の影響で,小学生の時に高校生が学ぶこともマスターできました。当時,第一外国語だったロシア語なども,姉が学んでいるのを見て覚えたので,自分が学校で習うときにはもうロシア語の文字や単語を知っていました。 骨折で十週間,学校に行けず,たくさんのハンガリーの詩を暗記したこともあります。ハンガリーの詩は物語風の長編が多いのですが,今覚えている詩の大半はその頃に暗記したものです。もちろん,小学校一年生で詩の内容全てを理解できたわけではありませんが,詩の魅力に惹かれて父から詩を朗読してもらったり,自分で詩集を読んだりして,単純に好きだから覚えたのですね。 ●日本のスポーツ活動に思うこと 高校三年の時に生徒会のスポーツ責任者を務めたので,スポーツ活動に力を入れました。隣のクラスとの親善バスケット試合をするとか,毎週一回,登校前の朝の一時間だけみんなでプールに行くとか,何人かで自転車で隣町まで行って帰ってくるとか,一つのスポーツだけに限らず,いろいろなスポーツ活動をクラスのみんなとやりました。 日本では学校の運動部に入って全国レベルになる子供もいるけれども,子供たちの健康増進法や,健全な遊びとしてはあまり取り組まれていないですね。だから運動部で専門的に毎日そればかりやるか,全然やらないか,この二つしかない。 僕が日本の運動部活動に賛同できないのは,学生時代にスポーツで日本の代表選手になったり,引退後も現役時代の経験を語って全国で講演会をしたりして生活をできる人は素晴らしいでしょうが,ほとんどの人はそうではないということです。学生時代にスポーツばかりやっていたせいで潜在的な学力を発揮できず,その人の潜在的な学力や才能からみて入れるような学校に入れなくなってしまうケースが多いですね。 「将来は野球の世界で勝負をしてみる」という夢を持つことは本人の自由ですが,まだ中学生や高校生など,十分に自分の将来を考えることができない子供を大人はむしろ一つの活動に時間が費やされる弊害から守らなければいけないと僕は思っています。だから,学生時代のかなりたくさんの時間を,自分の将来の職業や進路に関わりのないことに縛りつけるのはいかがなものでしょうか。たとえば練習はせいぜい週二回にするとか,日曜日は絶対に試合をやらないとか,とにかく将来のための勉強をさせるエネルギーを温存し,可能性を広げるという態度が必要だと思いますね。 逆に,普段はあまりスポーツをやらない人たちのためのスポーツ活動,というのが意外と日本は乏しいですね。ちょっとスポーツをやろうと思っても,スポーツセンターに行かなければいけなかったり,一週間前に予約をしないとできなかったり,決まった時間にしかできないというところしかないですよね。学校にプールがあるから子供たちが好きなときに自由に泳げるかというとそうでもありませんし。スポーツ活動を本当に大人と同じように「楽しい」と感じることが,子供たちは少ないのではないでしょうか。 もともと日本では,スポーツは男の人に体力をつけて,いい軍人に育てようということで奨励された時代がありました。けれども,今の日本は戦争をしない平和な時代であるので,そうした平和な時代にふさわしい,体を鍛えながらいろいろな人と交流できる,「勝利ではなく参加することに意義がある」という交流と楽しさを重視するスポーツ活動をやってもらいたいと思います。
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