第39回
温泉ジャーナリスト
野口悦男さん
2002年12月号掲載


PROFILE
温泉ジャーナリスト。日本温泉遺産を守る会代表。昭和二十二年,埼玉県生まれ。國學院大學法学部を中退した四十三年頃より,山岳やスキーなどのアドベンチャーカメラマンとして活躍。世界各地を巡り,なかでもヒマラヤのナンダ・デビィ山域では,世界初のスキーによる縦走に成功。平成十二年,日本全国三千湯の温泉入湯を果たし,温泉ジャーナリストとして,テレビ,雑誌などで活躍中。著書『11PM秘湯の旅』『東京・首都圏クルマで出かける山歩き』(以上,実業之日本社)『源泉の宿』『からだにやさしい療養温泉』(以上,山と渓谷社)『天皇の宿』(中央公論社)『温泉達人になる虎の巻』(マイクロマガジン社)など多数。

中学校にあった廃材でいかだを作り,大水の高麗川を下った。腕白がいいんだという,おおらかな時代だったね
見て,考え,行動に移す
 生まれ育ったのは,埼玉県の西部,日高町(現在の日高市)。自然環境は抜群の田舎でした。その頃の男の子は全員腕白,なんてったって外で遊ぶしかないんですから(笑)。受験や塾なんてないし,遊べるようなゲームや店もない,自然のなかでの遊び方を考えるのが仕事のようなものです。
 学校から家までの道に沿って,高麗川が流れていました。毎日十数人の仲間たちと遊んでいましたね。仲間たちにはそれぞれ得意分野がありました。僕の得意分野は魚捕りとメジロ捕り。今はメジロなどの野鳥を許可なく捕ることは禁止されているけれど,当時うちの田舎では男の子は皆捕って飼っていましたね。メジロの鳴き声を聞いたことはありますか? 言葉にはし難いけれど美しい声の鳥で,昔からその声を愛でる文化があるんです。高麗川という地名からもわかるように,置く武蔵丘陵のあたりは,今から千三百年以上も前に高句麗が滅びたとき,高句麗から日本に逃げてきた人たちが九州から東上してきて最後に落ち着いた地だといわれています。だから鳥の声をめでるだなんて大陸文化が色濃く残っていたんですね。それは地場産業である,狭山茶や養蚕も同じでしょう。
 メジロ捕りは,一匹おとりに鳥かごに入れ,その周りに鳥もちをつけた枝を差し,林の中につるし,後はかかるのを待ちます。メジロは警戒心の強い鳥です。そうそう簡単には寄ってこない。そこでどうすればいいのか幼いなりに考えました。鳥もちを仕掛ける場所の枝に似せて,おとりのかごからは少し離した場所に,設置するようにしました。魚捕りも同じです。魚が川の中のどこを泳いでいるかじっと観察して魚道を見つけるんです。ものを人より多く取ろうと思ったときには,「勝ちたい,負けたくない」とその行為だけをがむしゃらにするのではなく,どうすればできるかを考えてから努力や行動をする。この生き方は今の自分にずっとつながっていますね。
 小学校四年生のときの担任の先生,鈴木先生は,写真が好きな先生でした。カメラを個人で持っている人はほとんどいなかった時代のことです。運動会やなにかの行事のときには先生が写真を撮って,自分で焼いてくれていたんですよ。その写真ができるまでを,学校の階段の下の暗室で,僕たち児童によく見せてくれました。フィルムを伸ばし機にいれて下の紙に当てる。その印画紙を透明な液に漬けると僕たちの姿なんかがじわーっと浮かんでくる。それはなんといっても不思議でしたね。日光写真はやったことがあったけれど,日光写真は絵が出来上がっていくところが見えないですよね。でも,鈴木先生の写真は,液に入れて二分間でじわーっと形が浮かんでくるじゃないですか。魔法の液に思えましたね。それにときどき黒い紙をハートやクローバーの形に切って印画紙にのせて焼いてくれるんですよ。ハート型の中に僕らが写っているのを見て,わくわくどきどき,写真は楽しいなぁって心の底から感じました。
 僕のふるさとの山に登ると,北のほうに秩父連山が見えるんです。十一月も下旬になると,頂上の辺りに雪が積もってきらきら輝いていました。
「あの山に登りたい」といっていたら,地域の大人たちの山岳会に中学生から入れてもらったんです。その山岳会の人に連れられ秩父の山を登ると,また遠くに美しい山が見える。そうすると,あの山に登りたい。その山を登るとさらに次の山と,「あの山に登りたい」と言う気持ちは途切れなかったですね。


つづきを読む>>
1/3


一覧のページにもどる
Copyright(c) 2000-2024, Jitsugyo no Nihon Sha, Ltd. All rights reserved.