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●飼育係が夢だった 小学校の卒業文集に,ぼくは「動物園の飼育係になりたい」と書いていました。思えば,自分のやりたい仕事というのは,子どもの頃から,たった一つ,動物の飼育係だったんです。 幼いころは,ひとみしりで,おとなしい子どもでした。人とまっとうに話すこともできなかったんじゃないでしょうか。授業中に手を上げるなんて,とんでもない。目立たないように,あまり人に関わらないように,ひっそりと過ごしていました。 夜店で買ってもらったひよこを何時間も何時間も飽きることなくただただ眺めているのが,楽しかったのを憶えています。親にも鶏のひよこを育てる知識がなかったからでしょう,生米などをあげていたのですが,ひよこは次々死んでいきました。 でも,子どもは子どもなりに,このままひとみしりをしていてはいけないという気持ちも,少しあったんですね。小学校と中学校で一回ずつ,県内市内という近距離ですが,親の都合で転校をしたんです。その転校をチャンスだと,少しずつ性格を明るく,人と話ができるように,変えていきました。それでも,まだまだ内向的な子どもだったと思います。 中学校を卒業するころ,親父に「十五を過ぎたら面倒はみない」と断言されました。動物園で働くには,高校は出ていなければなりません。養鰻場に住みこみで働きながら,夜間の高校に行くことにしました。 この選択が,よかったんですよ。夜間の高校には,今までの自分を知っている人がいなかった。だからこそ,小中学校で転校したときよりも,もっと大きく自分を変えて,自分の言いたいことをはっきり言えるようになりました。それに,生き物に関わっているからと選んだものの養鰻場の仕事は厳しかったですが,自分の身上を自分で立てているということが気分を晴れやかにしてくれました。今思うと,一番能天気に過ごしていたのが高校時代でしたね(笑)。 夜間の高校は,年齢や,育ってきた環境もばらばらの,いろんな人たちがいました。少しぐらい変わっていても受け入れられる適度な距離感のようなものが,よかったのかもしれません。 あるとき,校長先生が訓話で何かの事故の話をしていたんです。クラスメートは,いつものとおりざわざわ私語をしていました。ぼくはそれがすごく腹が立ったんですね。「人の命の話を聞いている時間くらい,黙っておけんのかー!」って,啖呵をきったんです。みんな,驚いてましたね(笑)。「柴田は変なところで切れるなぁ」とあきれられましたが,拒絶はされない場所でした。 養鰻場では犬の世話もしていました。うなぎはそのころも高級魚で,よく窃盗団にねらわれていたんです。夜中に忍び込んで,大きな網で,その言葉どおり,一網打尽に,うなぎを持っていってしまう。犬は,その窃盗団対策ですね。けっこう獰猛な番犬でしたが,世話をするのは楽しくて,犬の訓練士の仕事もいいかなぁとちらっと思いました。でも,犬の訓練士の仕事は,お金が絡むことが多そうに感じて,自分に合わないだろうなぁと初心に戻りました(笑)。
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