第30回
生物学者
青木淳一さん
2002年3月号掲載


PROFILE
昭和十年京都市生まれ。東京大学農学部卒業。同大学院生物系研究科にてダニ学,土壌生物学を専攻。ハワイのビショップ博物館昆虫研究部研究員,国立科学博物館動物研究部研究官,横浜国立大学環境科学研究センター教授を経て,現在,神奈川県立生命の星・地球博物館館長。足下の土の中に住むダニやミミズ,アリなどの小動物をものさしに「自然の豊かさ」を測ることを提案して注目された。「ダニの話」「土壌動物学」「ダニの生物学」「ダニにまつわる話」「日本列島ダニさがし」など著書多数。日本土壌動物学会,日本動物分類学会,日本ダニ学会の各会長もつとめた。日本動物学会賞,中山賞,南方熊楠賞受賞。

この博物館は展示物に自由にさわれるんです。見てさわって実感してください
鉛筆転がしで進路が決まった!?
 ぼくは京都に生まれましたが,父親がたまたま日銀の京都支店にいたときに生まれたというだけで,三歳までしかいなかったものですから,その頃の記憶はまったくないですね。物心が付いてからは鎌倉の稲村ガ崎に住んでいた。東京の麻布の家が空襲で焼けてしまい,祖父の別荘のあった稲村ガ崎に移り住むことになったんです。ここは前は海,後ろは山で,まわりは田んぼばかり。ぼくが後に生物学者になったのには,こんな環境も影響しているのかもしれません。
 おとなしい子ども時代だったと思います。学習院の幼稚園に通っていましたが,常陸宮殿下と同級で,いわゆるご学友だったんです。このご学友というのは人畜無害な人間が選ばれるようです(笑)。鎌倉には小学校の六年生までいましたが,学校のある四谷まで通うのが大変でしたね。五時半発の江ノ電に乗るわけですが,外はまだ真っ暗でした。当時の満員ラッシュは今よりもひどくて,ドアからはとても降りられない。四谷に着くと電車の窓からランドセルをホームに放り投げ,自分も大人に抱えられては窓から飛び降りる毎日でした(笑)。
 小学校では,昆虫採集と模型電車作りと切手集めに熱中していましたが,親からもらうお小遣いではとてもやっていけないわけです。それで三つの楽しみをひとつに減らそうと悲愴な決意をしましたが,自分ではどうしても選ぶことができない。そこで鉛筆の六つの面に,キリの先で模型の「モ」,昆虫の「コ」,切手の「キ」と彫りつけ,十回転がしたところ,もっとも多く出たのが「コ」だったんですね。以後,他のふたつの趣味をきっぱりあきらめて昆虫採集だけに専念することにした。ぼくの場合,鉛筆に進路を決めてもらったようなものです(笑)。

ダニの研究を志す
 虫博士の異名をとっていたぼくは,中学校に入るとさっそく生物班というのを作り,初代班長におさまりました。それまで学習院の中学校には生物班はなかったんです。さらに慶応の生物班と合同で「少年昆虫同好会」を旗揚げし,ガリ版で生物雑誌なんかも出していました。そのままの流れで「昆虫学者になろう」と東大の農学部に進みました。当時は昆虫学というのは農学部で学ぶ学問だったんです。これは日本の昆虫学が農産物の病害虫の研究が中心だった頃の名残なんですね。
 さて,大学で何を研究しようかと考えたときのこと,どうせやるなら人と違うことがやりたいと思うようになったんです。東京に住んでいても阪神ファンといったへそ曲がりな人間でしたから(笑)。また,高等学校の頃から採集アミを振りまわすことがちょっと恥ずかしくもなってきていたんですね。
 そんなときに佐々学先生の「疾病と動物」という岩波全書の一冊を手に取ったところ,その最終章に「ダニの中にはササラダニ類というダニがいる。このダニは大自然の落ち葉の下に住んでいて,極めて珍奇な美しい形をしている。人の血を吸ったりと悪いことは何もしない。日本ではまだ誰も研究していない」と書かれてあったんです。「これだ!」と全身に電流が走ったような感じがしました。
 それで来る日も来る日もササラダニのことで頭が一杯になり,さっそく長野県の美ヶ原にササラダニの採集に出かけました。採集といっても体長0.5ミリもない。とても野外で目に見える大きさではありません。ひたすら落ち葉を集めては袋に詰め込むわけです。それを東京に持って帰り,手製のツルグレン装置にかけたところ,それはいろんな形をしたダニがたくさん採れたんです。もう狂喜乱舞しましたね。父親の末の弟に加納六郎という東京医科歯科大学の学長だった人がいるんですが,この人の専門はハエだった。叔父がハエで,甥っ子がダニと,そういった生物に惹かれる血筋なのかもしれません(笑)。

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