第27回
生活とリハビリ研究所代表
三好春樹さん
2001年12月号掲載


PROFILE
昭和二十五年広島県呉市生まれ。高校中退の後,数々の職業に就き,四十九年から県内の特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。文部省大学入学試験を経て,九州リハビリテーション大学校へ入学。卒業後,再び特別養護老人ホームで理学療法士として老人のリハビリテーションに従事。六十年退職し,「生活とリハビリ研究所」を主宰し,各地の通所施設や在宅訪問に関与しつつ,全国で「生活リハビリ講座」を開催。年間動員数は五万人にのぼる。また,個人編集の生活リハビリ情報誌「ブリコラージュ」を発行。主な著書に「老人介護 常識の誤り」「じいさん・ばあさんの愛し方」「関係障害論」など多数,吉本隆明氏との共著に「老いの現在進行形」などがある。

幼児期に良い母子関係にあった人ほど,老人になってから良いボケ方をするようです
勉強する意味が見いだせない
 こうして老人介護の世界に身を置いていると,人から「三好さんはおじいちゃんおばあちゃんにかわいがられて育ったんですか?」なんていう質問を受けるんですが,そんなことはまったくなくて,ぼくは核家族のひとりっ子なんです。親に言わせると,「かんしゃく持ちで育児に手を焼いた子ども」だったようです。
 物心が付いたころからそう言われつづけて育ったものですから,ぼくは自分の子ども時代が嫌いだった。自分はこまっしゃくれたかわいげのない子どもだとずっと思いこんでいたんです。それでなかなか自分の子どもをつくる気にもなれなかった。ところが四十四歳で自分に子どもができてみると,「ああ,きっとこんなふうにかわいかったはずだ」というふうに思い直したんです。今,自分の子ども時代の過去をねつ造しているところです。みんな過去は変わらないと思っているけれど,過去というのは記憶ですから再構成しちゃえばいいんです(笑)。
 小学校を卒業する段になって,地元中学に行くか,それとも私立中学に行くか迷いましたが,結局,広島市内の中高一貫の私立中学に入学することになった。地元の中学は坊主頭で,それがいやだったということもあるけれど,親の見栄半分,自分の見栄半分といったところが正直なところでしょうか。この学校は中学二年終了時までに三年までの教科書を全部終えてしまうんです。そうして一年ずつずらしていって,高校三年生の一年間は受験勉強のみをやるという学校でした。それでは全員優秀かというとそうでもない。県下の各小学校で一,二番のやつが集まってきているわけだけれど,当然,入学早々の試験でビリになるやつもいる。ビリにはならないまでも,中以下のグループになった人間は一気にやる気をなくしてしまうんですね。エリート校と言われる学校は,実は大量の無気力人間を生み出す学校でもあるわけです。
 ぼくの場合は受験勉強よりもずっと心がときめくものに出会ってしまったということが大きかった。時代の流れといえばそれまでですが,マルクスやサルトルやビートルズなんかに夢中になってしまったんです。「これからは英単語や数式を覚えたりするのはやめよう」と,かなり意志的に思っちゃったわけです(笑)。今振り返ると,何のために勉強しているのか,その意味が見いだせなかったんだと思います。学校の先生からは「おまえの学力じゃこの大学だ」と言われたことはあるけれども,「おまえは将来,どんなことがしたいんだ」なんて聞かれたこともないですからね。

老人に流れるゆるやかな時間
 高校三年になると,世の中は学園紛争の真っ盛りとなり,ぼくも数人の仲間と一緒に「呉の弾薬庫からベトナムに弾薬を送るな」と,反戦デモなんかに積極的に参加するようになったわけですが,仲間から逮捕者が出るに至って,学校側から首謀者ということで無期停学処分を受けてしまい,おまけに処分撤回闘争まで始めたものだから,ついには退学処分になってしまった。まあ,気持ちは何故か晴れ晴れとしていましたが,父親はカンカンに怒っていましたね。警察官という仕事柄当たり前ですが(笑)。
 運のいいことに,当時は高度経済成長の時代で仕事はいっぱいあったんです。そんな中で学歴不問の仕事を探すわけですが,こちらは学歴だけじゃなくて,体力もないですからね(笑)。パチンコ屋の店員から,ミシンのインチキセールスやら何やら二十近い仕事をやりましたが,運送会社の現場事務の二年半というのが一番長かった。
 そんな仕事をしながらも,文学的な読書会なんかには参加していたんですが,ある日,その会で知り合った牧師さんから「教会で運営している特別養護老人ホームで寮母が足りなくて困っているんだが,誰かいないか」という相談を受けたんです。ぼくのまわりには定職に就いていない友人が何人もいましたからね。そのうちの女性にでも,声をかけてくれということだったと思います。現在の仕事にちょっと飽きかけていたぼくは「ぼくじゃだめですか」と思わず口走ってしまったんです。
 景気のいい頃で,ただでさえ人手不足。若い男性で特養でオムツ交換なんて臭くて汚い仕事をしようなんて人間などまったくいない時代です。ホーム側は,力仕事もあるので腰の丈夫な男性は大歓迎だという。大歓迎と言われると逆に人間は不安になるんです(笑)。そこでホームの偵察に出かけました。一日にバスが三便しかない辺ぴな場所で,そのバスの終点からさらに急な坂を登っていった山の中腹にそれはありました。キリスト教のホームがあるにもかかわらず,山の名前が「極楽寺山」だったのが印象的でした(笑)。
 ホームを外からのぞき見ていると,ひとりのばあさんがベランダに出てきました。何やら掲示板のようなものを外に出そうとしているのだけれど,掲示板の足がドアに引っかかるわけです。それを外そうとするんですが,こんどはドアが閉まってくる。これを緩慢な動作で何度も繰り返しているわけです。その様子を見ていたぼくは,イライラするどころか何故かホッとした感じを持ったんです。この老人に流れるゆるやかな時間は一体何だろうと。この一件で就職を決めたような気がします。もっともそのおばあさんは,五十人の入所者の中でもっとも動きの早い人であるということは,勤め始めてから知りましたが(笑)。

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