第24回 漫画家 杉浦幸雄さん

ぼくは異母姉に非常に憧れていたんです。それが女人礼賛の原点かもしれませんね
いきなり売れっ子漫画家になる
 昭和十三年から「主婦の友」に「銃後のハナ子さん」の連載を始めたところ,これが大人気となり,いきなり売れっ子漫画家になってしまいました。
 世は軍国主義の真っただ中,タイトルだけ見ると,勇ましい漫画のようにも見えますが,実際は勇ましいシーンはほとんどなく,防空演習をしながら隠れてキスをするなんていう庶民の生活を描いたものだったんです。別に反戦なんていう強い意識で描いていたわけじゃないんです。時局認識が甘かったのと,ケンカが嫌いだっただけなんですね(笑)。
 軍部の手前,版元からはもっと戦争気運を鼓舞するような内容にしてくれとの要請はあったんですが,暴力的な漫画は描きたくても描けないんだから仕方がない(笑)。
 この「銃後のハナ子さん」をマキノ正博監督が気に入って,昭和十八年に轟由起子主演で映画化したんですが,なにせ戦争中のことですからもう検閲でずたずたにされてしまったと嘆いていましたね。
 ぼく自身も終戦の半年前に召集され,横須賀の海兵団にいたんですが,海兵団の副長がヒットラーのスタイルに憧れていて,画家や書家,音楽家などの芸術家を集めては副長付きの特別班をつくっていたんです。
 ぼくも班の一員でしたが,班員の中には後に文化勲章をもらった人もいます。
 印象に残っている出来事といえば,歌手の霧島昇兵長に引率されて沼津に行ったときのこと,途中で広島に高性能爆弾が落とされて街が壊滅したとの情報が入ってきた。
「ああ駄目だ。これはいよいよ死ぬ。もう命令なんか聞いていられるか」
と,霧島はぼくたち班員の前で持ち歌を絶唱したんです。それまでは命令で軍歌ばかり歌わされていましたからね。
 八月十五日に広場に集められ,直立不動で玉音放送を聞いたときは,ガーガーピーピーと拡声器の調子が悪く,お言葉の意味がまったくわからなかった。「ロシアと戦争するからもっとしっかりしろ」
 とおっしゃってるんだろうと,まあ勝手に解釈していました(笑)。ほとんどの兵隊はみんなそうだったと思いますよ。

女を描きつづけて七十余年
 敗戦で自信喪失した男性とは反対に,女性はみんな元気でした。食料の買い出しのために,風呂敷しょって汽車に乗り込む姿も勇敢でたくましい(笑)。男たちが背中を丸め,しょぼくれて歩いているのと対照的に,女たちは胸をはって闊歩していた。「女は強い」ってつくづく思いました。そのときに「女を通して時代を追いつづけよう」と心に決めたんです。これは戦後一貫して変わらない,ぼくの描く漫画のテーマになっています。まあ,簡単に言えば女性が大好きだったということです(笑)。
 おかげさまで,これまで病気らしい病気もなく,元気に漫画を描きつづけることができました。ぼくは漫画を描いてさえいれば元気なんです。体調をこわしたのは漫画が思う存分描けなかった軍隊にいたときだけ(笑)。
 聞くところによると,週刊誌連載をしている漫画家としては世界最高齢とのこと。しかし,ぼくはもっともっと漫画が描きたいんです。ぜひ世界最高齢の新聞連載漫画家というのに挑戦したいですね。もっとも依頼があればの話ですが(笑)。
「その元気の源は何ですか」と,よく聞かれるんですが,「浪費と恋愛」と答えるようにしています。昭和七年から今日まで,週に四日は銀座通いをしてきましたからね。さすがに最近では足腰が弱ってきて週に一度のときもありますが,この年になるとますます女性が美しく見える。すてきなオッパイやお尻にムラッときても年が年だけに何もできないけれど,この邪念妄想が漫画のアイデアにつながるんです。みなさんも稼いだ金はパッパと使いましょう,どうせあの世には持っていけないんですから(笑)。
 漫画家を目指す子どもたちへのアドバイスとしては,
「漫画家になったら忙しくて勉強なんかできないから,出来るときに一生懸命勉強しておけ」
ということですね。漫画家になっても勉強する時間があるような暇な漫画家じゃ困るんです(笑)。ぼくなんか小学校,中学校で得た知識だけでこれまでやってきたもの(笑)。
 まあ,それだけに学校の先生方にはきめ細かい指導でもって,子どもたちを導いていってほしいと思いますね。
(構成・写真/寺内英一)
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