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●往来に絵ばっかり描いていた幼年時代 ぼくは本郷元町の三軒長屋で生まれました。異母姉とのふたり姉弟です。現在は東京ドームや後楽園遊園地で賑わっているところですが,当時は砲兵工廠といって,大砲なんかを作っている兵器工場があったところです。水道橋から春日町までずっと工場の煉瓦塀がつづいていて,もう味も素っ気もない街でしたね。 運動の苦手な子どもでしたから,遊びといえば地べたに蝋石で絵ばっかり描いていた。ぼくの生まれる前年にハレー彗星というのが地球にやってきて巷は大騒ぎになったそうですが,その余波もあってか帚星なんかを描いたりしていました。ほかにも飛行船なんかもよく描いていましたね。 この飛行船ですが,ぼくの生まれた翌年に日本初の飛行場が所沢に出来て,四歳のときには国産初の軍用飛行船「雄飛号」というのが東京大阪間を飛んだんです。いつの時代でも子どもというものは最先端のものに憧れるんですね。 ここが大事なんですが,親父がですね,ぼくが往来に描いた悪戯書きのような絵を盛んにほめてくれるんですよ。通行人までつかまえて「うまいでしょう。ほら,この飛行船なんかとってもうまいでしょう」なんて。子どもは自惚れが強いからすっかりその気になっちゃって,もう往来の隅から隅まで描きまくっていました(笑)。 女房のことを愚妻,息子のことを豚児と言うのが謙譲の美徳とされていた時代に風変わりな親父でしたが,いま振り返ると,これが教育の根本だと思うんですよ。ほめられて人間はその気になる。あれでぼくは漫画家への第一歩を踏み出したようなものです。 ●アメリカの四コマ漫画に衝撃を受ける 親父がサラリーマンを辞め,満州で鉱山経営に乗り出したのにともない,私たち一家は満州に移住することになりました。奉天には小学校の一年から六年までいましたが,「漫画家になろう」と決意したのは小学校五年生のときですね。 家で取っていた朝日新聞の夕刊に,アメリカの人気四コマ漫画が「親爺教育」という邦題でもって連載されていたんです。この漫画が腹を抱えるほど面白かった。朝日新聞を取っていない友人が,その漫画が読みたいばかりに毎日わが家に遊びにきたくらいでした。 ぼくは学校では絵がうまいということで注目され,将来は画家を目指そうかという気持ちも正直ありましたが,その四コマ漫画に衝撃を受けて以来,日本画家や洋画家になろうなんていう気は微塵もなくなり,「漫画家として,いつかこんな漫画を描きたい」と思うようになっていったんです。 日本に帰ってからは,中学に通いながらいくつかの絵画研究所にも通いました。漫画家になるためにもデッサン力は必要だと思っていたんです。 本郷絵画研究所に在籍していたときのことですが,まずは一階の教室で塑像のデッサンから始まるんですが,二階ではヌードのデッサンをやっている。こちらは一刻も早く二階に行きたいわけですが,進級試験にパスしないと二階には行けないことになっている。もう二階に行きたい一心で塑像のデッサンに励みました(笑)。
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