第20回 活動写真弁士 澤登 翠さん |
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●弁士の修業は台本書きから始まる 家に帰って「弁士になる」と宣言したところ両親はびっくり。「弁護士じゃなくて弁士なの?」と(笑)。それでもこのまま一生家に引きこもられるよりは,外に出て社会性を身につけてくれたほうがましだと思ったのか,反対はされませんでしたね。半分,リハビリセンターにでも通わせているつもりだったのかもしれません(笑)。 こうして先生の事務所のお手伝いをしながらの弁士としての修業が始まりました。弁士の修業の第一歩は活弁の台本を書くところから始まります。活弁には決まった台本というものはありません。ですから一本の無声映画でも,仮に十人の弁士が演じるとすると,十通りの解釈の台本があるわけです。逆に言えば,作品の本質を理解し,いかに面白い台本を書くかというところが,弁士の腕の見せどころでもあるわけです。 私が最初に書かせていただいた台本はチャップリンの「スケート」という短編映画でした。まだ家庭用ビデオなんていうものがない時代ですから,先生のお宅で16ミリのフィルムを映していただき,チャップリンの動きを逐一頭に焼き付けるわけです。それからうちに帰り,記憶の鮮明なうちに頭の中でプレイバックしながら台本を書くわけです。書き上がったらまた先生の家に行って映画に合わせて語らせてもらい,不自然なところは加筆訂正するという,ひたすらその繰り返しです。先生は技術的なことは何もおっしゃいませんでしたね。とにかくこちらは素人ですから,まず台本を書くということ,語るということ,その形そのものに慣れさせようということだったのだと思います。 ●あまりの暗さに驚いた初舞台 ありがたいことに入門して二ヶ月目に初舞台に立たせていただきました。場所は新宿紀伊國屋ホール。当時ご存命の牧野周一,山地幸雄両先生の前座で語らせていただきましたが,とにかく一番最初ですから,前説も紹介もなしに舞台の幕が上がるとすぐに上映開始なわけです。 一番驚いたのは場内のあまりの暗さでした。映画ですからあたりまえといえばあたりまえですが,お客として映画を見ていたときにはそんなこと気にもとめませんでしたからね(笑)。演台の上には台本を読むための小さな豆ランプみたいなものがあるだけです。それでも落ち着いてさえいれば何とか読めるはずなんですが,もう頭の中はパニック状態ですから,あせって台本を読むことができないんですね。画面に合わせて頭に浮かんだことをアドリブでしゃべっているうちに終わってしまったという感じでした。 それでも「チャーリーはひとりゴーイングマイウェイ,我が道を行くのであります。チャップリンのスケート,一巻の終わりであります」と終えた瞬間,「うわー」と五百人くらいのお客さんが温かい拍手をしてくれて,もううれしかったですね。これだけの人から拍手してもらえたことなんて,生まれて初めてじゃないですか。「ああ,弁士ってこんなに楽しいものかしら。これは一生やめられない」と思いましたね(笑)。 それからの三年間は「スケート」を唯一の持ちネタに,春翠先生の前座として,全国各地の公演にお伴させていただきました。同じ作品を繰り返し語ることで,なにげないチャップリンのしぐさがつぎのシーンの伏線になっていることがわかってくるんです。いかに自分がぼんやり見ていたかと反省させられましたね。最初に演じたときと,三年後ではまったく違う台本になっています。 また新たに見えてきたものもありました。チャップリンに限らず無声映画は映像で語っていますから,語りが過剰になってはいけないんですね。言葉が画面を支配してはいけない。あくまで画面から言葉が出てくるようじゃなきゃならないんです。だけど当初はわからないわけです。「ここで間を取ろう」とか「ここは黙って映像だけにお客さんを集中させたほうが効果的だ」とか,ようやく理解するのに三年かかりましたね。その間,先生はああしたらこうしたらということを一切おっしゃらない。レパートリーを広くするよりも,ひとつの作品を深く理解することから得られる収穫のほうが大きいことを先生は教えてくれていたんですね。 弁士という仕事の魅力は何かと考えますと,映像を介したお客さんとのキャッチボールだと思います。自分の考えたギャグに笑ってくださったり,悲しい口上に客席からすすり泣きが聞こえてきたりと,そういうときに「あ,お客さんといま結ばれている。気持ちが通っている」と実感するんです。客席がそんな感情で満たされると,それがさざ波のように伝わってくるんです。私もその気持ちに励まされて,さらに語りに熱が入り,お客さんからいただいたさざ波を大きな波でお返しする。するとまた,より大きな波が返ってくる。無声映画に息を吹き込むのが弁士の仕事ですから,もうその瞬間は至福のときですね。
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