第20回 活動写真弁士
澤登 翠さん
2001年5月号掲載


PROFILE
さわと・みどり 東京都出身。法政大学文学部哲学科卒業後,昭和四十八年二代目松田春翠(無声映画鑑賞会会長,東京都文化賞第一回受賞者)に入門。「弁士」というユニークな存在が次第に忘れられていく中で,国内外の幅広い活動を通じて「弁士」の存在をアピールし,伝統話芸としての「活弁」を支える第一人者として知られる。現代劇から時代劇,洋画とレパートリー多数。深い教養と洞察力に裏付けされた映画評,エッセイ等にも定評がある。平成二年日本映画ペンクラブ賞,七年日本映画批評家大賞ゴールデングローリー賞,十二年山路ふみ子文化財団特別賞受賞。

大正レトロを思わせるシアターレストラン「東京キネマ倶楽部
夢想家だった少女時代
 本を読むのが大好きな子どもでしたね。祖父も父親も本好きだったものですから,物心がついたときには本に囲まれての生活でした。グリムやアンデルセンに子鹿物語,子ども用に書かれた源義経や太平記などの歴史物まで,もう与えられた本を毎日読みふけっていましたね。
 ところがそうやって読んでいると,西洋の話も日本の話も頭の中でごちゃごちゃになってしまい,登場人物たちが頭の中でぐるぐると勝手に動き出してしまうわけです。白雪姫を助けるのがいつの間にか義経になったりと,自分だけの物語ができてしまう(笑)。それで,その物語を小学校の帰り道に友だちに話すわけですが,これが好評で,「面白いから明日もまた聞かせて」と頼まれる。そんなに喜んでもらえるならばと,家に帰っては本に向かい,明日話す物語のネタを一生懸命に考えるわけですが,さすがに日替わりで物語を創るのはプレッシャーでした(笑)。
 でも,そうやってまで物語を考えたのには理由がありまして,私は引っ込み思案な性格で,積極的に友だちの輪の中に入っていくことが苦手だったんです。小学校の通信簿には「協調性に欠ける面がある」といつも書かれていたくらいですから。ところが私が物語の話をすると,自然に友だちが集まってきてくれる。私にとって,このことが一番うれしかったんです。そんなこともあって,人前で話すことが次第に好きになり,中学,高校では演劇部に入りました。新劇や宝塚を両親と一緒によく見にいっていたことも影響していると思います。当時は,宝塚の男役にも憧れていましたからね(笑)。


松田春翠先生との出会い
 ところが大学に入り,演劇とは遠ざかってしまいました。中学や高校の演劇部と違って,大学の演劇研究会は本格的で,何となく敷居が高く感じられたんです。それに,うちは堅実なサラリーマン家庭でしたから,「女優を目指したい」なんて言おうものなら両親とも絶対に反対するということがわかっていましたから。
 大学卒業後は本が好きということもあって,出版社で編集補助のアルバイトを始めましたが,あまり仕事に夢中になれなかったわけです。本を読むのと作るのとは別ですからね(笑)。結局,そのアルバイトも長続きせず,家に引きこもってはゴロゴロしていました。いま流行りのパラサイト・シングルの先駆けでしょうか(笑)。
 そんなある日,無声映画に語りが付いたものが上映されるという新聞記事が目に止まったんです。一日中,家にいることにもいいかげん飽きていた頃ですから,「ふーん,どんなものかしら」といったくらいの軽い気持ちで見に出かけましたが,これが私の一生を変えてしまいました。
「明治二十三年の初夏,北陸一帯を巡業しております見世物小屋の中で,瀧の白糸と呼ばれる水芸の太夫がおりました」と語る弁士・二代目松田春翠の声で始まった「瀧の白糸」でしたが,始まった瞬間からぐいぐいと引き込まれてしまったんです。モノクロームの画面に映し出される大輪の白薔薇のような入江たか子の立ち姿,冷たく研ぎ澄まされた岡田時彦の横顔。色彩のないモノクロゆえに見る側の想像力をかき立てる映像,それに弁士の語りと楽団の演奏が加わって醸し出される,映像,語り,音楽の三位一体の臨場感。
「これだ,私が探していた夢中になれるものはこれなんだ」
 すっかり虜となってしまった私は,この感動をどうしても春翠先生に伝えたくて,早速,向島にあった先生の事務所兼お宅を訪ねました。取り憑かれたように弁士の仕事や他の無声映画の作品について根ほり葉ほり尋ねる私に先生はひと言,「そんなに興味があるのなら,弁士になってしまいなさい」(笑)。

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