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●気の小さな女の子 「よく頓知が利く子だ」って言われていました。面白いことを言っては,まわりの大人を笑わせるのが好きだったんです。こう言うと,明るくて積極的な性格かと思われがちですが,実際は目立ちたいけど目立てない内弁慶な性格で,知らない人がひとりでもいると緊張して黙り込んでしまうようなタイプでした。父親の仕事の関係で小中学校と転校も多く,京都や長野にも行きましたが,こんな引っ込み思案な性格ですから,クラスに溶け込めるようになるまでは本当に辛かったですね。 高校からは両親の許を離れ,東京でひとり暮らしを始めました。正確に言うとひとりではないですね。桜美林大学付属高校の寮に入ったんです。これにはあまりに転校転校でかわいそうだという両親の配慮もあったと思います。父親もいつかは東京の職場に戻ることになっていましたから。 高校生活にも慣れたある日のこと,校内をぶらぶらしていると,「ねえ,彼女オ」と大学生が話しかけてきました。「やったー,私もついにナンパされたー」と内心ドキドキしながら話を聞いてみると,「いま寄席やってるからさあ,ね,チケット買ってよ,ほら五十円」と。なんのことはない落語研究会の呼び込みだったんです(笑)。半分だまされたような出会いでしたが,これが私の人生を決定づけることになりました。 この日をきっかけに落研の人たちと親しくなり,高校の授業が終わると,大学の落研の部室に遊びにいくようになりました。うちは大学も高校も同じ敷地内にありましたからね。とはいえ,自分自身が落語をやろうなんていうことは考えてもいませんでした。落研の人たちが優しくしてくれるものだから,つい遊びにいくようになっていたんです。 そのまま大学へと進みましたが,当然,落研の先輩方から入部を求められました。でも,正直言って,私はあまり乗り気ではなかったんです。部員になれば落語を覚えなければならない。見て笑ってるほうが楽ですからね(笑)。 ところが,なだめすかされながらも初めて高座に上がった私は一変してしまいました。世の中にこんなに素晴らしいものがあったのかと。座布団の上に座っただけで主役も脇役も,老若男女の役も思いのまま,演出家にも,果てはマクラに話す小咄の作家にまでなることもできる。もうそれからの大学時代は落語とアルバイトに明け暮れた四年間,いえ五年間でしたね(笑)。 ●素人落語会を作る 大学卒業を控え,落語家になりたいと思っていた私は,当時知り合った若手の噺家さんに相談してみましたが,返ってきた言葉は,「無理無理,女の噺家なんて,この世界で続いた例しがないんだから」というものでした。それでも好きな落語の世界から離れずに生きていく方法はないものかと必死に考えました。 最初に思いついたのが落語家と結婚すること。ただこれは相手にも選ぶ権利がありますからね(笑)。考え抜いたあげく,もともと文章を書くことが好きだった私は,出版社に入ってゆくゆくは落語の本を出そうという結論に至りました。思いついたらすぐに行動に移す私です,さっそく夜間の専門学校へ通い,編集の勉強を始めました。 専門学校を卒業後,運良く広告代理店の編集部に就職できたんですが,不動産関係の情報誌を出している会社で,まるで毎日が戦場のような忙しさ。深夜帰宅に休日出勤は当たり前。とても寄席に通う暇などありません。落語と縁を切るまいと思って選んだ仕事が,一番落語から離れる結果になってしまったわけです。ところが,しばらくして幸か不幸か,その情報誌が廃刊になってしまいました。うれしかったですねえ(笑)。仕事が楽になり,時間ができるようになると,ふたたび私の中の落語の虫がむずむずと動き始めました。 「よし,落語同好会を作って活動しよう!」 さっそく落語好きの友人,そしてそのまた友人と,ひとりひとり必死に口説いては同好会を立ち上げました。その結果,忘れもしない昭和五十八年,念願の素人落語会を開くことができたんです。お客さんも百五十人ほど入ってくれました。しかし,こうなるともう止まらない。「好きな落語でご飯が食べたい」と,私の思いはますます膨れ上がっていったのです。
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