第12回 プロ野球アナリスト 宇佐美徹也さん

巨人軍の闘いが再現された「宇佐美徹也の記録 巨人軍65年」
成就しなかった淡い恋
 高校卒業後,市内の糸問屋に就職しました。最初はリアカーを引きながら糸を各店に納める仕事です。これは重労働な上,恥ずかしかった。向こうから知り合いが歩いてくると横道に入ったりしてね(笑)。その後,相場部門に配属された。糸相場に加えて,小豆や大豆なんかの相場も扱う仕事です。この仕事は適職でした。もともとデータを整理するのは好きですから,図表を駆使して株の動きを分析し,お客さんの受けも良かった。
 ところが大きな事件を起こしてしまいました。当時の佐野は繊維景気に沸き立っていて,花街には芸者さんが百人以上いました。接待で出入りしているうちに,そのうちのひとりと恋愛関係になってしまったんです。親の借金返済のために働かされていた娘で,彼女が逃げたいというものだから,東京外語大にいっていた佐瀬に連絡を取って,彼の下宿に匿ってもらった。要するに「足抜け」です。置屋は怒り心頭。会社にねじ込んでくるわ,地元の新聞社にリークするわで,翌日の新聞の一面には,「○○商店の宇佐美,売れっ子芸者と足抜け」とトップ記事で書かれてしまった。困った会社は急遽,ぼくを東京本店に転勤させることにし,その娘も入れ替わりで佐野に引き戻されて,結局,淡い恋は成就しませんでした。

記録の神様との出会い
 本郷の西片町にある会社の寮に入ったぼくは,それまで以上に野球にのめり込みました。何といっても後楽園球場のすぐそば。会社から急いで帰ってはスコアブック片手に球場に直行です。当時は外野席ならいついっても観戦できましたし,チケットも安かった。また,休日には野球好きの友だちと野球選手の家にサインをもらいにいったりもした。いまでいう「追っかけ」ですね(笑)。
 ある日,パ・リーグの記録部長を勤めていた山内以久士さんに会いにいこうということになった。山内さんは「記録の神様」といわれ,記録マニアの間では絶大なる崇敬を得ていた。事務局でいろいろ話をさせてもらっている間に,それじゃ何日にうちに来なさいということになった。それからぼくの山内家詣でが始まりました。
 何回目かの訪問のとき,自分で作った打率早見表をもっていきました。縦に打数,横に安打で,交点を見ると打率がひと目でわかるというものです。電卓のない時代,いちいち計算していたらたいへんな時間がかかる。この表は高校時代,毎日数学の時間に計算して作ったもので,先生から「おまえ何やってんだ」と,廊下に立たされながらも意地で完成させたものでした(笑)。
 そしたら山内さん,「こっちにはこんなものがあるんだよ」と,にやにやしながら引き出しから1冊の本を出してきた。それがまったくぼくの早見表と同じなんです。自分が最初だと思ったらすでに作ってあるわけです。このときはがっくりしましたが,山内さんに目をかけてもらえるきっかけになったと思いますね。

パ・リーグの公式集計員に採用される
 山内さんの強い推挙もあり,昭和三十一年,二十二歳のときにパ・リーグ記録部の公式集計員に採用されました。リーグには審判部と記録部があり,記録部には直接各球場で試合を記録する公式記録員と,各地から速達で送られてくるそれらの記録を集計する公式集計員の,二種類の仕事があった。もっとも公式集計員というのは,当時ひとりしかいなかった(笑)。その人が病気で入院したために,ぼくが採用されたわけです。
 朝,有楽町の事務局に出勤しては集計を始めるわけですが,どんなに一心不乱に集計しても,一試合につき,一時間以上はかかります。打撃,投手,守備と三つに分けて計算するわけですから。ぼくが採用された年はパ・リーグは八球団で,年間六百十六試合あった。現在は四百二十試合くらいです。ペナントも大詰めになるとダブルヘッダーの連続で,一日に八試合なんてこともあった。そんな日は十時間以上はかかります。
 ただ,仕事の面でつらいと思ったことはまったくありませんでしたね。野球データという宝の山に囲まれての仕事ですから,もう毎日が楽しくてしかたがなかった。唯一,困ったのは給料があまりにも安かったこと。それまで糸問屋でもらっていた給料の半分でしたからね。足りない分は自分で稼ごうと,野球のコラムを書いては雑誌に投稿していた。何といっても資料の宝庫にいるんですからネタには困らない(笑)。三年後には給料より原稿料のほうが多くなっていましたね。

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