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●カードの野球ゲームに夢中になる 昭和八年,栃木県の佐野市に生まれました。父親は中学校の英語教師をしていましたが,顧問をしていたテニス部の練習中に日射病で倒れ,そのまま亡くなってしまった。ぼくが四歳のときで,下の妹はまだ母親のお腹の中でしたね。幸い母親が教員免許をもっていたものですから中学教師となって,家族の生活を支えるようになったんですが,転勤が多く,小学校時代は鹿沼,足尾,栃木とずいぶん転校もしました。 高等小学校を卒業後,旧制の栃木中学に入りましたが,学校でカードの野球ゲームが大流行しました。ふたりで相対してやるゲームなんですが,十数枚の手持ちカードと,守備位置ごとの場カードを配り,サイコロの出た目に応じてゲームを進めていくといったものです。このとき初めて野球というスポーツを身近に感じましたね。 栃木中学から新制の佐野高校に転校しましたが,高校では野球好きの仲間と「リトルジャイアンツ」という野球チームを作った。野球チームといってもスポンジ球を使った野球です。硬球は痛いですからね(笑)。二,三時間目に早弁し,昼休みになった途端に校庭に飛び出してはスポンジ野球に熱中した。このときの仲間には,後にノンフィクション作家になった佐瀬稔もいて,佐瀬とは彼が一昨年ガンで亡くなるまで親友として付き合いました。後年,ぼくがスポーツ新聞の記者という仕事を選んだのも佐瀬の影響が大ですね。 その頃からはラジオで中継されるプロ野球も聴くようになりました。わが家にあったラジオはオンボロで,とても聞きづらかったんですが,耳をラジオに押しつけては必死に聴いていましたね。巨人の三原修監督が南海の筒井敬三選手を殴って乱闘になったときや,対松竹戦で九回二死までひとりの走者も許さず,完全試合を目前にしながら伏兵・神崎安隆に夢を潰された巨人のエース・別所毅彦の痛恨の一球なんかもラジオで聴いていました。アルバイトをしてはお金をためて,月に一度は佐野から東京にプロ野球を観戦にいくようにもなりました。 東京では知り合いの家に泊めてもらってね。帰りには銀座にあった日刊スポーツの小さな事務所に寄り,三ヶ月分の新聞代と郵送代を払ってくる。すると新聞を帯封で佐野の自宅まで送ってくれる。当時,佐野の新聞店ではスポーツ新聞は扱っておらず,直接頼むしかなかったんです。ところが郵便事情が悪かったせいか,三日分まとめて届いたり,いつになっても届かなかったりと,毎日やきもきさせられました(笑)。 ●スコア付けにどっぷりはまる 高校に入ってすぐに野球のスコアを付け始めました。ラジオで野球の実況中継をただ聴いていても試合が終わったらそのままじゃないですか。それでラジオを聴きながらスコアを付け始めたんです。こうすると,試合終了後もじっくりとゲームを振り返ることができますからね(笑)。そのうちに各選手の打率を計算してみたり,チームにもっとも貢献した選手を選び出す公式を作ったりと,データを分析すること自体が楽しくなってきたんです。 中学時代に始めたカードの野球ゲームにも相変わらずはまっていました。市販のカードじゃ物足りなくなって,ひとりでも楽しめ,なおかつ実戦に近いオリジナルのゲームも作った。たとえばランナーが三塁にいて,バッターが外野フライを打つ。その場合に浅いフライだとホームインできないけれど,深いフライなら犠牲フライになってホームインできるとかね(笑)。 ほかにも市販のカードだと,強打者も弱打者も区別がないので,川上哲治よりも弱打者のほうが打率がよくなってしまう。これはリアリティーに欠けるというんで,カードをめくるときにも強打者用と弱打者用の二種類のカードを作ったりもした。最後はもう人に説明してもわからないような,自分にしかわからないようなルールになってしまった(笑)。 これももちろんスコアを付けながらゲームをするわけです。というよりもスコアを付けたいがためにゲームをするといったほうが正確かもしれません。毎日がこんな状況でしたから成績は落ちる一方,高校二年のときには大学受験をあきらめてました。
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