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いまから10年前、世の中はバブルの絶頂期にあった。当時、店舗設計会社のサラリーマン社長として、多忙な毎日を過ごしていた野村さん。だが、1989年に突如として会社を辞め、三味線の道に入ることになる。 ●社長を辞めて、三味線の世界へ いまから約10年前、私が43歳のときでした。当時私は、店舗設計の仕事をしていたのですが、バブルが進むにつれて、「儲かればなんでもいい」という時代になっていったんです。普通なら完成するまで2ヶ月くらいかかるような店舗でも、1週間でつくってくれみたいな、そういうやり方、そういう時代に疑問を感じていました。 そんなとき、父親が亡くなりました。父親は働き者のまじめなサラリーマンでしてね、非常に尊敬していましたからとてもショックでした。何もいい思いをしないまま他界してしまった父のことを考えると、「自分の人生、このままでいいのか」と。それで、なんでもいいから趣味をはじめようと思い立ったわけです。ただ、もう厄年も過ぎたことだし、おじさんらしい趣味にしようということで三味線を選んだんですが、とりあえず、音くらい出せるだろうと軽く考えていたんです。それで、家内に三味線を買ってくれないかとお願いしてみたんです。しかし、家内には、「今年は子どもが高校と大学の進学を控えているので」と、断られてしまいました。三味線は高いんですよ。当時、練習用の安いものでも、30万円くらいしました。津軽三味線のプロが持っているものは、何百万もするほどです。 しばらくあきらめていたのですが、ふと、子どもの頃に工作でつくった弦楽器を思い出したんです。私がいらなくなった素麺の木箱で三味線をつくるのも、ごく自然の流れでした。 素麺の空き箱に角材を差し込み、釣り糸を張って、三味線らしきものを完成させました。それから、ハローダイヤルで調べた三味線教室を訪ねてみたのですが、「これは三味線ではありません」と断られ教えてもらえません。仕方なく練習用のテープや本を買い、独学です。見よう見まねで練習しているうちに、念願の「禁じられた遊び」が半分弾けるようになったんです。弾いているうちに、「なんてかわいらしくきれいな音だろう。いろいろ研究すれば、もっといい音が出るのではないか。三味線の研究をしたい。これはもう、会社になんか行っている暇はないぞ」と、思うようになって(笑)……。 ●路上ライブで自信をつける 1998年に会社を辞め、翌年から木づくり三味線をつくることと、弾くことに専念する日々が始まりました。「どうしてこの時期に、どうして三味線なの?」。家内や子どもたちの非難はもっともなことです。私が三味線にのめりこんでいった当初は、夜、となりの部屋でわざと私に聞こえるようにヒソヒソ話をしていました。 「お父さん、困ったもんだね。いっそ、殺してみんなで死のうか」なんて。私は自分の世界に入ったきりで三味線の研究を続けていたのですが、そういうときは、ダメな父親としては思い切り明るく振る舞うしかないんですね。「やっと、いいアイデアが出た」と、わざと大声を出すんです。すると、ふすまがガラッと開いて、「何が? どこが?」と、やけっぱちな声が帰ってくる。「これのおかげで、こんないい音が出るようになったんだ。ちょっと聞いてくれ」。 そうしているうちに、だんだん「しようがないな」とあきらめるようになっていって、それが続くと、今度は協力的になってくれたんですけど。自己流の修業を2年くらい続けたある日、名古屋の大須へ旅立ちました。路上ライブをするためです。名古屋というのは、昔から芸どころといわれていて、芸能文化に厳しいところです。いろんな人にすすめられて、一度チャレンジしてみようと思い立ったわけです。 ただ、大須に行くまでが大変だったんですよ。お金がないんです、埼玉から名古屋へ行く電車賃が。それで、仕方なく子どもの貯金箱をこわしまして、それでようやく片道分の電車賃を工面した(笑)。フラフラになりながら、ようやく大須にたどり着き、アーケード街に新聞紙を敷いて、弾きはじめたんです。100円で買ったザルを置いてあるんですが、通行人はなかなか立ち止まってもくれません。一生懸命弾いているんですけど、なかなか曲のなかに気持ちが入らない。どうしたらお金をもらえるか、そればかり考えていましたから(笑)。 それで、一曲弾いたら誰もいなくても、三味線を前において「ありがとうございました」と頭を下げる。それから、また弾く。そうやっているうちに、どこからともなくあらわれて、チャリンとお金を入れてくれる人が出てきた。どこかで、聞いてくれていたんですね。 ポイントをつかむと、少しずつ曲に集中できるようになっていきました。丸一日そうやって、小銭だらけの袋を持って、意気揚揚と家に帰りました。「これで米が買える」と思うと、もううれしくて(笑)。家族みんなで数えたら、6万円くらいありました。これは大きな自信になりました。これなら、なんとか三味線で食べていけるかもしれないと思ったんです。
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