発売日:2019年9月5日
価格:1700円(本体)+税
体裁:四六版上製
頁数:472ページ
- 2019.09.03
- 小説家の額賀澪さん、文芸評論家の末國善己さんのブックレビューを公開しました
- 2019.08.29
- 東京・大阪でのイベント開催が決定しました!
冗談のような世界
読書をするとき、心に留まった一文や素敵だなと思った言葉があっても、付箋を貼らないようにしている。勉強と少し似ている。高校時代、社会科だったか国語科だったかの先生によく言われた。「教科書には線を引くな」――それは要するに、教科書に書いてあることは全部大事だから、下線を引いてそこだけを丸暗記するような勉強法はよしなさいということだった。確かにそうだと思った。蛍光ペンで線を引いた途端、色のついていない文章に「重要ではない」と印を付けるようで気が引ける。
そんなこともあって、読書をするときは本に付箋を貼らないようにしている。大学のときの恩師が「覚えておかなきゃいけない言葉はメモしなくても記憶に残る」と言っていたから、本を閉じたときに覚えていたものこそが、その本が読み手に与えてくれたものなのだと思う。それを入り口に、その本について想いを馳せてみろということなのだと思う。そういう言葉は意外と、付箋など貼っていなくても、栞を挟んでいなくても、ぱらぱらとページを捲ればすぐに見つけることができる。
この本を読み終えたとき、私に最も強く残っていたのはこの一文だった。
ひと昔前なら出来の悪いフィクションの中にしか存在しなかった冗談のような世界が、今はここにある。
序盤に出てきた文章だ。今確認したところ、83ページだった。選挙の後だからだろうか、もうすぐ消費税が引き上げられるからだろうか、オリンピックが一年後に控えているからだろうか、とにもかくにもこの一文について、ずっとずっと考えている。
作中で綴られる《冗談のような世界》は、1988年のことだった。1990年生まれの私はまだこの世に存在すらしていない。生まれてこの方、見たことすらない《好景気》というものに日本中が浮かれていたと、日本史だったか現代社会だったかの教科書で学んだ時代である。
物心着いた頃からずっと続くこの不景気の中でも美味しい思いをしている人がいるように、あの《好景気》の時代に美味しい思いをできなかった人が大勢いることは、教科書の行間からなんとなく理解した。
教科書の行間からぼんやり漂っていたものが、貫井さんの手で物語になって平成生まれの私のところにやって来るのは、とても不思議な気分である。
バブル当時、その《冗談のような世界》を生きていた人々は、今をどう思っているだろう。もっと酷い《冗談のような世界》に到達してしまったような気がしてならない。「大きい悪は、小さな正義を押し潰す」のは、元号が変わっても変わらない。
本来なら彼等の行為に対して、亮輔のように怒り、憤り、嘆かないといけないとわかっている。にもかかわらず、あの時代を知らない私が彼等の行いに正当性を見出そうとしてしまうのは、私自身が今を《冗談のような世界》と思って、義憤を溜め込んでいるからなのだと思う。
いいものは悪くなり、悪いものはもっと悪くなる。世界はちょっとずつ不幸に向かって歩いている。それは、自分が生きてきた平成という時代に、私自身が教えられたことだ。
物語の中で彼等が「時代」そのものに義憤をぶつけたように、私達は「今」に何ができるだろうか。自分の未来のために、誰かの未来のために、私は何かを破壊できるだろうか。誰かを傷つけられるだろうか。命を奪ってしまえと思えるだろうか。世界を変えるために、リスクを覚悟して、体を張って、何かを成し遂げられるだろうか。できないなら、やはり《冗談のような世界》の中を歩んでいくしかないのだろうか。
ずっとずっとそんなことばかりを考えている。
昭和と平成を結ぶ誘拐ミステリ
貫井徳郎は、誘拐ミステリの『慟哭』『悪党たちは千里を走る』、警察が表立って動けない事件を処理する特殊チームが活躍する〈症候群〉シリーズ、宗教とは何かを問う『神のふたつの貌』、小さなエゴの積み重なりが悲劇的な事件を引き起こす『乱反射』、一家惨殺事件が人間の心の闇を浮かび上がらせる『愚行録』、奇妙な動機の犯罪で現代の不条理に迫る『微笑む人』など、本格から社会派まで多彩なミステリを発表している。二年ぶりの長編となる本書は、これまでの著者のエッセンスがすべて詰め込まれた贅沢な作品である。
浅草で暮らし、長年にわたり交番勤務の警察官として地域住民に慕われた濱仲辰司の死体が、隅田川に架かる新大橋の橋脚で発見された。当初は事故死と思われたが、検視で側頭部に殴られた痕が見つかり他殺と断定される。子供の頃に父親が自殺し、親代わりのような辰司の影響で警察官になった芦原賢剛は、所轄の刑事として辰司を殺した犯人を追う。一方、昔から辰司が秘密を持っていたと感じていた息子の亮輔も、勤務先が倒産し時間に余裕があることから父の過去を調べ始める。すると賢剛の父・智士が自殺した頃から、辰司が変わったことが分かってくる。
物語は、亮輔と賢剛が辰司が殺された事件を追う現代のパートと、地価が上昇し暴力的な手段を使った地上げが横行した昭和末期のパートをカットバックしながら進む。
東京の下町・浅草にも地上げの嵐が吹き荒れ、土地を売って大金を手にし転居する住民と、土地の売却を拒む住民の分断が進んでいた。容赦ない地上げによって心理的に追い詰められ命を落とす人たちも出てきたが、犯罪ではないので警察は手出しできない。そこで、正義を遂行し法が裁けぬ悪に鉄槌を下すグループが結成された。このグループは、地上げ屋を雇った大手不動産会社の従業員の子供二人を誘拐し、会社から多額の身代金を引き出すが人質は絶対に傷つけない完璧な誘拐計画を練り上げていく。
ターゲットが悪辣な企業で、私利私欲による犯罪ではないので、グループが完全犯罪を進める中盤は痛快に思えるかもしれない。誘拐で最も難しいのは身代金の受け渡しとされるが、著者はバブルの全盛期の、ある特定の日にしか成立しないトリックを用意しており、特に当時を知る読者は驚きと同時に、“これは成功する”と感じることだろう。
だが本書は、正義が勝利して終わる勧善懲悪にはなっていない。グループの誰も意図していないし、悪意の結果でもないが、計画に小さな、しかし決定的なミスが生じてしまうのだ。このミスで心に傷を追ったグループのメンバーは、その後の人生にも軋みが生じ、これが思わぬ形で辰司殺しへと繋がっていくので、亮輔と賢剛が新たな事実を掘り起こすたびに局面が変わり、物語が二転三転していく終盤は圧巻だ。
グループは、親の代から同じ地域に暮らす顔見知りが傷付くのを見かね、人情と正義感で行動を起こす。これは強い正義感ゆえに、犯罪の加害者の家族や勤務先を特定したり、何気ない発言を不謹慎と決めつけたりして、それをインターネットで拡散し炎上させる現在の状況に近いものがある。しかし、誘拐計画を実行したグループは、自分たちがはからずも背負ってしまった“罪”のため、犯罪という誤った手段で正義を行使したことに悩み苦しむ。これに対し、ネットで炎上を煽っている正義の味方たちは、同姓同名の別人を加害者の家族としても、不謹慎との判断が誤解であった事実に気付いたとしても、謝罪も反省もしないケースが多い。著者が、自分たちの“罪”を自覚し、何十年もかけて贖罪の方法を模索したグループのメンバーの人生を丹念に追ったのは、テクノロジーの発達で正義の実行に手間も時間もかからなくなり、これが“罪”の存在を忘却させている現状を突き付けるためだったではないか。
昭和と平成を結ぶ本書の構成は、もう一つ、今の日本はいつ、どこで変わってしまったのかというテーマも掘り下げていく。かつて日本人は勤勉で、福利厚生が行き届いた企業で細部にまでこだわる仕事をしていたとされたが、近年は、食品の産地偽装、大手メーカーの検査偽装、過剰なノルマを課して従業員に負担を強いるブラック企業の横行など、利益を追求するためなら手段を選ぶ必要はないとの空気が広まっている。本書は、こうした拝金主義の原点がバブルにあるのではないかとしており、考えさせられる。
読者の常識を覆すミステリの手法を用い、昭和末から現在に至る日本社会の移り変わりと、日本人の価値観の変容を連続する一本の線の延長線上にとらえた本書が、元号が変わり時代の節目が寿がれている令和元年に刊行された意義は大きい。
3種のポスター(PDF/jpg)をご用意しました。
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ポスター第1弾
ポスター第2弾
ポスター第3弾
元警察官の辰司が、隅田川で死んだ。当初は事故と思われたが、側頭部に殴られた痕がみつかった。
真面目で正義感溢れる辰司が、なぜ殺されたのか?息子の亮輔と幼馴染で刑事の賢剛は、死の謎を追い、賢剛の父・智士の自殺とのつながりを疑うが……。隅田川で死んだふたり。そして、時代を揺るがした未解決誘拐事件の真相とは?
辰司と智士、亮輔と賢剛、ふたりの男たちの「絆」と「葛藤」を描く、儚くも哀しい、衝撃の長編ミステリー。
1968年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。
93年、第4回鮎川哲也賞最終候補作の『慟哭』で作家デビュー。
2010年、『乱反射』で第63回日本推理作家協会賞、『後悔と真実の色』で第23回山本周五郎賞を受賞。
「症候群」シリーズ、『プリズム』『追憶のかけら』『愚行録』『新月譚』『微笑む人』『私に似た人』『宿命と真実の炎』など多数の著書がある。
著者二年ぶりの長編小説
罪と祈り貫井徳郎
隅田川で発生した元警察官殺し。その息子が突き止める、父親の秘密。令和元年、必読の衝撃作!
発売日:2019年9月5日
価格:1700円(本体)+税
体裁:四六版上製
頁数:472ページ