第33回
食生活ジャーナリスト
岸 朝子さん
2002年6月号掲載


PROFILE
食生活ジャーナリスト,有限会社エディターズ代表取締役。大正十二年東京都生まれ。昭和十七年に女子栄養学園(現・女子栄養大学)卒業。結婚出産を経て,三十年主婦の友社に入社する。四人の子どもを育てながら始まった「料理記者歴」は,今年で四十七年。四十三年女子栄養大学出版部発行の月刊誌「栄養と料理」編集長に就任。部数を飛躍的に伸ばす。五十四年,編集プロダクション,エディターズを設立。「食」に関する雑誌や書籍を多数制作。平成五年から六年間審査員として出演したフジテレビ「料理の鉄人」でお茶の間の人気者に。十一年,オーストリア政府からバッカス賞を授与される。

平成9年,恩師,香川綾先生と。いちばんお世話になった人です。(撮影/女子栄養大学学長・香川芳子氏)
初めての料理は大失敗
 ホワイトソースでしたね,初めて作った料理は。小学三年生か,四年生のころだったと思います。神奈川県の金沢(今の横須賀市)にあった別荘の台所で,親にも兄弟にもだれにも見つからないようにこっそりと作ったんです。ホワイトソースの作りかたが雑誌にのっていたので,これはもう作ってみたいと。生まれは関東大震災の年なので,初めて作る料理としてはハイカラだったかもしれませんね。父がよく銀座の洋食屋さんにつれていってくれていたので,「ホワイトソース」というもののおいしさはよくよく知っていました(笑)。自分ひとりで作ればひとりじめできますもの。小麦粉をバターでいためて……,結果は大失敗でした。小麦粉がだまだまになってしまって食べられたものじゃない。全部こっそり捨てましたよ。今になってみれば,裏ごししてからやり直すとか利用方法も考えられますけれど,なにせ初めてのお料理でしたから。
 幼いころはおとなしい女の子でした。小学校に上がる前,小児結核にかかったこともあるんですよ。自宅は東京にあったのですけど,金沢の別荘で転地療養をしました。この家には,父の仕事場のひとつがあったんです。
 父は若いころをアメリカで過ごしました。沖縄で生まれ育ち,農業の勉強をするためアメリカに渡ります。そこでカキの養殖に出会い,「海に恵まれた日本でカキを養殖してアメリカに輸出をする」。そんなプランを考えて日本に帰ってきました。種カキを植えたロープをいかだから海にぶら下げてカキを育てる「垂下式」という方法で,今ではカキの名産地になっている宮城県初のカキの養殖を成功させます。「世界のカキ王」とも呼ばれた宮城新昌が私の父です。


人まかせにできないもの
 父は私たち娘に「掃除や裁縫は人まかせでもいいが,料理はたとえ人に作らせるとしても指図ができなければならない」とよく言っていました。掃除や裁縫とちがい,料理は人の命にかかわるもの。自分や家族,食べる人のからだに大きく影響するから大切なんです。
 女学校に進学してスキーなどいろいろ運動をするようになって,おとなしかった子どものころと比べるとずいぶん活発になりました。当時,女学校を卒業したあと就職や進学をする人は少なかったのですが,「栄養について勉強したい」と父にお願いすると,父の興味のある分野だったこともあったのでしょう,女子栄養学園に進学させてくれました。
 女子栄養学園は,今は女子栄養大学となっています。香川昇三先生と香川綾先生のご夫妻が作られた学校です。香川綾先生は,学校という形だけにとどまらず,さまざまな活動で日本人の食生活の改善に努めていらっしゃった先生でした。戦争で食料事情が悪くなってきていた昭和十五年には,栄養バランスを考えた献立とそれに見合った材料を配る献立材料配給所を開設されたりもしていました。単に食料を配給するのではないところに先生のお考えがあったのでしょう。五年前,先生は九十八歳でお亡くなりになりました。
 女子栄養学園で教えていただいた料理で印象深いのは,かぼちゃのお味噌汁です。今は珍しくも
ないかもしれませんが,家に帰って母や姉に「かぼちゃのお味噌汁を作ろう」と言ったら「お味噌汁にかぼちゃを入れるなんて」と大反対されたんですよ。それで食べられずじまい。卒業後結婚してから「かぼちゃのお味噌汁」を作ったときには,「夫婦二人,ここが自分の城なんだ」と実感しましたね(笑)。


主婦業で学んだこと
 夫は,職業軍人でした。お給料は多くはなかったですね。「貧乏少尉,やりくり中尉,やっとこ大尉」と世の中ではいわれてましてね,うちは中尉でしたから,がんばってやりくりしていました(笑)。戦況が悪くなり,夫が愛知県豊橋の駐屯地に移ったこともあって,愛知県一宮の夫の実家に疎開しました。そこで終戦をむかえます。
 職業軍人だったので,終戦と同時に仕事はなくなりました。夫は,私の父のすすめで,千葉の五井(今の市原市)でカキの養殖の仕事を始めます。
 カキの出荷の時期になると,宮城県から泊まり込みで手伝いに来る人たち,地元で雇っている人たち,それに夫,長女,長男,次女と,二十人分くらいのご飯を毎日用意していました。たくさんの分量だと,味付けが難しいと思われる方もいらっしゃいますが,簡単なんですよ。女子栄養学園では人がおいしいと感じる味付けを数値で教えていただきましたから。お汁だと,塩分は0.8パーセント,一リットルだと八グラム分の塩分です。その八グラムを,小さじ一杯の塩が五グラム,しょうゆは大さじ一杯で塩分が三グラムですから,そこから作る量に合わせてぱぱっと計算すればいいわけです。学校で習ったことを実践で身につけていった時期でしたね。
 家には,広い畑もありました。いつの季節も食材があまり変わらずある今とは違い,ジャガイモの時期にはジャガイモばかりが食卓にのぼるんです。どのように料理したら飽きずにおいしいか,いろいろ工夫しながら毎日手作りしていたことが,その後の「料理記者」の仕事に役立ちました。
 カキの行商先の病院では,若い栄養士さんがいきいきと働いていました。終戦で規則の改定があったのを知らなくて失効してしまった栄養士の資格。一念発起して勉強して取り直したのもこのころです。

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