本多静六とは「人生即努力、努力即幸福」のモットーのもと、戦中戦後を通じて働学併進の簡素生活を続け、370冊余りの著作を残した「蓄財の神様」である。
東京農科大学(現在の東大農学部)の助教授を務めながら「月給4分の1天引き貯金」と1日1頁の原稿執筆を開始。研究生活のかたわら日比谷公園の設計や明治神宮の造林など大きな業績を残すだけでなく、独自の蓄財投資法と生活哲学を実践して莫大な財産を築いた。
多くの成功者に絶大な影響を与えた、伝説の億万長者である。
- 幼少期
- 1886(慶応2)年、埼玉県に折原家の第6子として誕生。
地元では有名な餓鬼大将で、学問には無関心。遊びに夢中な少年であった。
しかし9歳のときに父・禄三郎が脳溢血で急死。家に多額の借金が舞い込み、極度の緊縮生活を余儀なくされる。
静六が「人間というものは満ち足りた状態にあるときには、反発心も努力しようとする気も起らないが、不足不遇の状態にあるとかえって求むる心が強くなり、奮発努力するものだ。」と語るように、家運を挽回すべく向学心を高めたこのとき、静六の自覚的努力の第一歩が始まったのである。 - 苦学時代
- 静六の向学心は燃え上がり、14歳からは農閑期の半年間は上京し勉学に励み、農繁期の残り半年間は帰省して農作業に勤しむ生活を繰り返す。
そして1884(明治17)年、苦学の末に官立の東京山林学校に入学。
一度は落第するも、雪辱の意気に燃え猛勉強し、次学期には進級し成績も優秀になる。
先生から「お前は幾何の天才だから、もう出席しなくてもよろしい」と言われたときのことを静六はこう振り返っている。
「とにかく私も努力しさせすれば人並み以上、天才近くにもなれるのだという自覚自身が、私の一生をどれだけ力強く鞭撻してくれたかわからない。」
その後も猛勉強を続け、静六は東京山林学校を主席で卒業することになる。 - 留学
- 25歳で元彰義隊隊長・本多晋の一人娘、栓子と結婚。
東京山林学校の卒業とともにドイツへ留学し林学を追究する。半年間をターラント山林学校、以降の1年半年間をミュンヘン大学で過ごした。
しかし静六はここでまた苦境に立たされる。本多家が詐欺に遭い、留学中の静六への送金が途絶してしまったのだ。
この経済的受難により、静六は学費を縮小するべく4年間の課程を2年間で修了するという冒険的な計画を立てる。
毎晩3~4時間睡眠という猛勉強の末、修了試験に合格。ミュンヘン大学博士号を取得した。
このときのことを静六は「終生忘れることのできない光栄のシーン」と振り返っている。 - 教授時代~晩年
- 1892(明治25)年、ドイツから帰国すると東京農科大学(現在の東大農学部)の助教授に就任した。大学を卒業して間もなく、また25歳という若さでの就任は異例のことだった。
またこの9月から亡くなるまで、著述原稿として価値をもつクオリティの原稿を1日1ページ書き続ける行ないを実践。後に370冊以上の著書を遺した礎である。
通常の講義だけでなく演習林の管理、さらに大隈重信からの依頼で東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師を嘱託され、多忙の日々を送る。
1899(明治32年)に学位令が改正されると、日本で初めての林学博士に任命される。また教務の余暇を利用して山林の効用や林学宣伝の啓蒙活動に努めた。
そのほか日比谷公園の設計、明治神宮の造林、国立公園や大学演習林の創設に携わるなど大きな業績を残す。そして1927(昭和2)年の停年退職を機に、家族に最小限度の財産を残し、学校・育英・公益の関係諸財団へ匿名で寄付。
1952年1月29日、満85歳で死去。370冊以上もの著書、各方面での多大なる功績を遺した末の大団円であった。
私の財産告白
文庫
単行本
誰でも豊かで幸福になれる! 日本人が書いた最高の人生哲学
現代の私たちにいまなお新鮮に響く、日本が生んだ最高の「お金持ち哲学」。伝説の億万長者が明かす金銭と人生の真実。
私の生活流儀
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単行本
平凡こそ、人生のすべて。幸せに暮らすための先人の知恵
偉大な学者でありながら、巨億の富みを築いた哲人が説く、健康・家庭円満・利殖の秘訣。時代を超えた先人の知恵を集約した一冊。
人生計画の立て方
文庫
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半世紀を経ていまなお光を放つ、本多哲学の集大成!
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