実業之日本社トリビア

「実業」という言葉は実業之日本社が仕掛けた:
委託制度のはじまり:
『婦人世界』

・1909(明治42)年  『婦人世界』が出版界初の返品制を採用。現在出版物販売の主流をなしている委託制度の始まりとされている。

表紙の題字を北大路魯山人が書いた雑誌がある:
題字:北大路魯山人

・1911(明治44)年  『日本少年』3月号より。
・1913(大正2)年  『少女の友』1月号より。
・1922(大正11)年  『実業之日本』第25巻第1号より。

大隈重信が寄稿していた雑誌がある:
・1912(明治45・大正元)年  『実業之日本』で「大隈重信縦横談」の連載が始まる。
新渡戸稲造は実業之日本社の編集顧問だった:
左)新渡戸、中央)増田義一、右)大隈重信

・1909(明治42)年  『実業之日本』、増田義一「我社の編集顧問として新渡戸稲造博士を迎ふるの辞」と、新渡戸稲造「余は何故実業之日本社の編集顧問となりたるか」を掲載。
・1912((明治45・大正元)年  健康上の理由で辞任。
・1933(昭和8)年  カナダで客死(享年72歳)。『実業之日本』で「新渡戸稲造博士の思ひ出」を特集。

日本新三景は実業之日本社が決めた?!
・1916(大正5)年  『婦人世界』春季増刊号誌上に読者投票の最終結果を発表。 三保の松原(静岡県)、大沼公園(北海道)、耶馬渓(大分県)
・1918(大正7)年  『婦人世界』創刊10周年記念日本新三景碑を三景それぞれに建て除幕式を行った。揮毫は東郷平八郎元帥。
“プロフィール”を流行らせた:
『巴里のプロフヰル』

・1929(昭和4)年  藤田嗣治著『巴里のプロフヰル』を刊行。“プロフヰル”が流行語となった。

社屋の住所は銀座ではなかった:
社屋

・1930(昭和5)年  町名変更で社の所在地が京橋区南紺屋町12番地から銀座西1丁目3番地に改称された。

大日本印刷の初代社長は実業之日本社創業者だった:
初代 増田義一

・1935(昭和10)年  秀英舎、日清印刷が合併して大日本印刷発足。増田義一が初代社長に就任した。

日本で初めての「ハイティーン」:
『新女苑』

・1958(昭和33)年  『新女苑』新年号の表紙に「Shinjoen for elegant Hi-teen」の文字を入れる。日本での「ハイティーン」という語の使用はこれに始まるといわれる。

「ギャートルズ」は『漫画サンデー』がはじまり:
・1965(昭和40)年 『漫画サンデー』から1975(昭和50)年まで、園山俊二「ギャートルズ」が連載された。
・この「ギャートルズ」には少年ゴンは登場していない。
・1966年から学習研究社の学習雑誌に「はじめ人間ゴン」が連載され、読者層に合わせて少年ゴンが登場する。
・アニメ化に合わせて1974年から小学館の学年誌に「はじめ人間ギャートルズ」が連載される。
小説中心の週刊誌を世界で最初に刊行した:
『週刊小説』

・1972(昭和47)年に創刊された『週刊小説』は、小説中心の週刊誌としては世界初。