佐川光晴『鉄童の旅』刊行記念対談 佐川光晴×豊田巧「少年たちは「鉄道」で成長する」
2014.02.14
鉄道を舞台にした小説『鉄童の旅』を刊行する佐川光晴氏が、鉄道もののライトノベルや児童小説で活躍する豊田巧氏と初対談。鉄道への思いは、教育論に発展して――
聞き手・撮影/ 栗原景
兄弟は筋金入りの鉄道ファン
──佐川さんは『鉄童の旅』、豊田さんは『電車で行こう!』と、鉄道好きの少年を主人公にした小説を執筆されていますが、ご自身も子どもの頃から鉄道がお好きでしたか。
佐川 いや、僕は鉄(鉄道ファン)ではなかったんです。でも、電車に乗る機会は多くて、家族での基本的な移動手段は電車でした。北海道大学に在籍していた頃は、帰省する時に上野 ~青森間の夜行急行「八甲田 」や「津軽」をよく利用して。鉄道が好きだったのは12歳年下の弟で、彼は本物の鉄です。
豊田 僕は元はミリタリー好きなんです。その代わり親父が撮り鉄(撮影好き鉄道ファン)で、兄貴が乗り鉄(乗車好き鉄道ファン)。僕は奈良出身ですが、子どもの頃、父が近鉄電車を撮っていたのを覚えています。
佐川 その頃はフィルムですから、お金のかかる道楽ですよね。
豊田 基本的に親父はボンボンなんです(笑)。学生の頃から蒸気機関車をカメラで追いかけていたみたいです。僕らが生まれてからも、色々な電車を撮りに出かけていました。兄貴は小学生の頃から「いい旅チャレンジ20000㎞」をやっていて、休みになるとあちこちの電車を乗り回っていました。
佐川 チャレンジ20000㎞って、昔、国鉄がやっていたやつですか。
豊田 そうです。国鉄が、あなたはこの路線に全部乗りましたって認定してくれた鉄道ファン向けのキャンペーンで、兄貴は休みのたびに周遊券を持ってどこかに行っていましたね。
佐川 筋金入りですね(笑)。
豊田 そういう家に育ったので、電車には詳しかったんですけど、僕自身はガンダムとかミリタリーの方が好きでした。それが高じてゲーム会社に入ったところ、その会社が突然電車のゲームを作り始めまして。
佐川 大ヒットした『電車でGO!』シリーズですね。電車が好きでゲーム会社に入られたわけじゃなかったと。
豊田 そうなんですよ。僕は宣伝担当だったので、電車に詳しくなくちゃいけない。そこで、「キハのキは気動車のキ」なんて、子どもの頃を思い出しながら勉強しました。その後ゲーム会社をやめて、ミリタリーの小説を書けないかなと思っていたら、ある編集者の方から「君は『電車でGO!』の宣伝をやっていたんだよね。それじゃ、電車をテーマに書けない?」って言われて。それで電車の小説を書くことになったわけです。
──さきほど撮影を行なったJR 相模線の宮山駅は、佐川さんの新刊『鉄童の旅』にも登場します。
佐川 主人公の男性は1980年代に、ふたつ隣、香川駅ちかくの児童養護施設で小、中学校時代を過ごしたという設定です。僕は茅ヶ崎で育ちまして、自宅のあった鶴が台団地も、通っていた茅ヶ崎北陵高校も、相模線の沿線でした。今も昔も相模線は単線で、1時間に3~4本しか運行していない。高校時代、列車に乗り遅れそうな同級生を自転車の後ろに乗せて香川駅に向かうと、ホームに茅ヶ崎駅行きが入っている。そこで、「すみませーん。まだ発車しないでください」と叫んだら、そいつが乗るまで待っていてくれた(笑)。80年代前半のことで、相模線はまだ電化されていなかった。のどかな国鉄の時代でした。
豊田 私も沿線に住んでいるので、そのローカル感がよくわかります。ドアは乗客がボタンを押して扉を開閉する「半自動」ですしね。
佐川 東京近郊とは思えないのんびりした路線ですよね。『鉄童の旅』の主人公は、幸せとは言えない境遇で育つのですが、相模線が走るのを眺めていると心が落ち着く。それが主人公と鉄道の関係を象徴する場面のひとつになっています。
1979年、国鉄時代の宮山駅。窓口は改修されたが、
下見板張りの外観は現在とほとんど変わらない(寒川文書館所蔵)
国鉄時代を描く魅力
──『鉄童の旅』の舞台は80年代前半。国鉄がJRになる直前ですね。なぜこの時代を選ばれたのでしょうか。
佐川 理由は簡単で、その頃に一番よく汽車に乗っていたからです。北海道は電化されていない区間が多いので、「電車」ではない列車が今も沢山走っていて、だから僕はいまだに「汽車」と言ってしまうことがあります。それはともかく、学生時代は年に2、3回は札幌と茅ヶ崎を陸路で往復していました。そのたびに一昼夜を汽車のなかで過ごしていたわけで、合計するとかなりの時間になる。沖縄の与那国島でサトウキビ刈りのアルバイトを三ヵ月ほどしたあと、鹿児島から札幌まで鈍行列車を乗り継いで帰ったこともあります。そして、北大在学中に国鉄が分割・民営化されてJRが発足した。また、青函連絡船が廃止されて、青函トンネルになるという大きな節目にも遭遇しているので、自然にその時代を舞台にすることになりました。
──主人公は、まだ五歳なのにひとりで北海道から東京まで鉄道に乗って旅をします。いまだと考えられませんが。
佐川 そうですね。でも、80年代はぎりぎりできたんじゃないでしょうか。僕は周遊券だったから、「八甲田」や「津軽」ではいつも自由席のボックスシートでした。見知らぬ人同士が向かい合わせに座って一晩を過ごしていたわけですからね。それが不快でもなかった。だから、「鉄童の旅」も可能だったはずです!
──豊田さんもライトノベルの『RAIL WARS!』シリーズで「日本國有鉄道」という架空の鉄道組織を描いています。その理由を教えてください。
豊田 「もしまだ国鉄があったら……」というのは鉄道ファンだったら、誰でも一度は考える妄想だからです(笑)。
──いつもびっくり電車が登場して、とんでも展開をしますよね?
豊田 きっと鉄道ファン一人にひとつ「こうなっているはず!!」というのがあると思いますよ。僕はその一例を書いているだけなんです。
子どもは「鉄育」で一人前になる
──佐川さんは、十年間にわたって屠畜の仕事に携わり、その経験をもとにした「生活の設計」でデビューされました。坪田譲治文学賞を受賞した『おれのおばさん』は、大学時代に過ごされた北海道が舞台として登場します。今回の『鉄童の旅』もモデルとなる存在がありましたか?
佐川 やはり弟の存在は大きいですね。弟は小学三年生の春休みに、時刻表で計画を立てて、新宿から塩尻、塩尻から中央本線で名古屋へ出て、大垣夜行で茅ヶ崎へ戻る、というひとり旅をしていました。その弟が、今は鉄道関連の仕事をしているので、この子は鉄道に育てられて、鉄道によって一人前になったんだなと。『鉄童の旅』の「わたし」には、そんな弟の姿も投映されています。
豊田 鉄道に育てられる……「鉄育(てついく)」ですね。
──『鉄童の旅』は、孤児として育った主人公が、謎だらけの自分の過去を探すなかで、自身と鉄道の絆きずなの強さに気づきます。豊田さんが書かれた児童小説の『電車で行こう!』シリーズや、『RAIL WARS!』も、鉄道によって少年たちが成長していく、言わば鉄道が父親代わりになるお話です。
豊田 そうですね。
佐川 『RAIL WARS!』は、JRではなく国鉄が存続している架空の世界を舞台にしていますよね。あれは、国というアイデンティティを持たない民間会社が果たして子どもたちの父親たり得るか、という深い問題が提起されているんじゃないかと。
豊田 いやいや、そんな深い狙いはこれっぽっちも……(笑)。
佐川 でも、人を成長させる父親のような存在という点は、豊田さんの作品も僕の小説も共通しているなと思いました。
1979年の相模線寒川駅構内。
1984年に廃止された西寒川支線の起点でもあり、乗降客が多かった(寒川文書館所蔵)
1979年、寒川~香川駅間の小出川鉄橋を渡る相模線。
『鉄童の旅』の主人公は、こんな風景を眺めていたのか(寒川文書館所蔵)
青函連絡船の旅情
──佐川さんご自身も、鉄道に育てられたところがあったのでしょうか。
佐川 そうですね。振り返ってみますと、鉄道によって鍛えられてきたと思います。18歳で北大に進学したのですが、茅ヶ崎育ちなので、荒川を越えて大宮あたりまで来ただけで、もう東北地方に入ってしまったって気持ちになって。
豊田 それは早いなあ(笑)。
佐川 受験の時は飛行機を使ったので、実感が湧かなかったんです。それが、夜行列車で一晩走って青森に着き、青函連絡船に乗ると、銅鑼が鳴って「蛍の光」が流れ、汽笛が響く。三点セットの攻撃を受けて、不覚にも涙を流しました。一生懸命勉強して、こうして憧れの北海道に向かっているのに。生まれて初めて親元を離れて、海を越えて違う島へ行くんだっていう思いが胸に迫ってね。
──『鉄童の旅』でも、冒頭に青函連絡船が登場します。
佐川 ええ。青森から4時間近くかけて津軽海峡を渡るのですが、函館から札幌までがまた遠い(笑)。特急「北海」というのに乗って。
豊田 「北海」ですか! あの列車は小樽経由で、山越えがあるからのろかったんですよね。
佐川 札幌はこんなに遠いのかって思いました。そうやって、鉄道と連絡船によって親元を離れたというのは、僕にとって大きな経験でした。
豊田 そういう旅情が、鉄道にはありますね。小説でも、飛行機だと出国ゲートでさようならっていう感じで、あっさりですが、鉄道はいろいろなエピソードを入れやすいです。僕らの世代だと、『銀河鉄道999』のラストシーンですよ。鉄郎が列車を追いかけて「メーテル!」って叫ぶ別れのシーン。あれはどんな人でも感動しますよ(笑)。
佐川 今は家族だとクルマで移動することが多いですよね。でも、電車は子どもにとって本当に良い経験になります。僕が子どもの頃、四谷にいた祖父母を訪ねる時に東海道線に乗りましたが、帰りは僕が東京駅のホームで列に並んで母親や妹たちのぶんまで席をとった。無事座れてよかったなって思っていると、母親に「光晴立ちなさい、あなたはお兄ちゃんなんだから」って言われて。見上げると、おばあさんが立っているんですよ。
豊田 席を譲ってあげなさいと。
佐川 そうです。でも内心では「早くこの人降りないかな」って思って。でも、茅ヶ崎までとうとう降りなかったり(笑)。
豊田 昔は知らない人からも怒られました。逆に助けてくれる人もいっぱいいて。まさに「鉄育」です。今はなかなかそういうことが難しい。
──豊田さんの『電車で行こう!』は、読者層は小学生ということですが、「鉄育」を意識していらっしゃいますか。
豊田 あまり教育くさくならないようにしています。例えば『電車で行こう!』では、写真好きの女の子が、写真を撮る時にフラッシュを焚かないっていう描写を何度も書いています。運転士がまぶしくならないようにというマナーなんですが、「そういうことを守る子どもはかっこいいじゃん」っていうスタンスで。
佐川 上から目線で教育しようというのではなく?
豊田 そうです。エンターテインメント作品なので、格好いい人やシーンを描けば自然にみんなマネしてくれると思っています。ほら、刑事ドラマで「事件は現場で起きているんだ!」っていうシーンを見た人は、刑事でもサラリーマンでも胸が熱くなるのと同じです(笑)。
左から豊田巧、佐川光晴、聞き手の栗原景各氏。
栗原氏も幼いころから鉄道に親しんだ「鉄童」で『新幹線の車窓から』
『列Q 列車と時刻表の旅100問』ほか、鉄道、韓国関係の著作が多数ある
鉄道を描く難しさ
──鉄道を舞台にした小説を書くに当たって、難しいことはありましたか。
佐川 いえ、電車は種類も多いし、関わる人も多種多様なので、特別に難しいということはありませんでした。いろいろなシーンを描けますからね。僕は豊田さんと同じ世代で、国鉄時代とJRの両方を知っています。ですから、時代の移り変わりも出しやすかったと思います。今回の『鉄童の旅』では、駅長さんが出てきたり、鉄道の友社という大阪の出版社が出てきます。鉄道ファンからの視点だけではなく、できるだけトータルに鉄道を描きたかったんです。でも、鉄道に関する記述が間違っていたら突っ込まれるだろうって、戦々恐々とはしていましたけど(笑)。
豊田 鉄道を書く=資料との闘いですから。『RAIL WARS!』は資料が本当にたくさん必要で、1ページのために資料を1冊買わなくちゃいけないこともあります。考えたルート通りに実際に貨物列車を回送できるかわからなくて。線路の配線だけを延々と掲載している本を見つけた時は「あった!」と思いました。
佐川 小学校4年生の次男は『電車で行こう!』シリーズの大ファンなんですよ。最初2冊買ってあげたらすぐ読んで、続きもほしいって。青春18きっぷとかどんどんマニアックな内容になるんですけど、ちゃんとわかって読んでるみたいです。ホームページのクイズにも挑戦しています。
豊田 ありがたいなあ。もう、『電車で行こう!』は鉄道の教育本になっています(笑)。
──最後に、『鉄童の旅』に込めた思いを教えていただけますか。
佐川 鉄道はゆりかごだと思うんです。鉄道は人を育てるに足る乗り物であるっていうことを、主人公の成長によって表現したかった。鉄道によって救われた人たちの話を書きたかったんです。トラベルミステリーもいいけど、こういう形の鉄道小説があってもいいんじゃないかと。
豊田 僕の兄貴がちょうどそんな子どもだったので、ああいいな、あったなって思いながら読ませていただきました。国鉄時代の良さが出ていて、今の僕の作品では書けない“鉄道のいい話”。ライトノベルでは、どうしても爆発シーンとか派手な表現が必要で、国鉄の話として昔のことを書いちゃうとご年配向けになっちゃうんです。鉄道のお仕事小説は結構ありますけど、鉄道に乗る子どもが主役の作品は、ありそうでなかった。そして、『鉄童の旅』は今回対談させていただいて感じたような佐川さんのやさしさが、作品ににじみ出ていて、色々な世代の人が楽しめるようにできているのがすごい。本当にたくさんの人に読んでもらいたいと感じました。
──おふたりの今後の作品も期待しています。
※本対談は月刊ジェイ・ノベル2014年2月号の掲載記事を転載したものです。