江上剛氏<4月の新刊によせて>『銀行支店長、走る』 銀行物でミステリーを目指せ
2013.04.25
しばらく銀行物を書いていなかった。原点に戻って銀行物を書きたいと思った。しかし、今まで通りでない何かをプラスしたい……。
サラリーマンが読んでためになるものがいい。ミステリーの要素もいれたい。それともう一つ、『再起』(講談社文庫)に登場させた私の大好きなキャラクターである勇次と藤堂のコンビを復活させたいと欲望は膨れ上がった。
勇次は、元総会屋。社会の底辺を知る男だ。しかし正義感が強い。藤堂は、元暴力団対策担当の刑事。なかなかの人情家だ。このコンビに合う主人公はなかなか難しい。
そこで杓子定規で融通のきかない堅物、その名も貞務定男を登場させることにした。
サダム・フセインみたいだが、あんな独裁者ではない。義務を定め、それを順守する男だ。今日的に言うならコンプライアンス人間だ。
しかし、単なる堅物では面白くない。そこで貞務は、行動を「孫子の兵法」に準拠する人物に設定した。何か行動する時、「孫子の兵法」ならどうすると考えるのだ。
孫子とは、2500年まえの中国で活躍した兵法家だ。
武田信玄の「風林火山」の元になった「其の疾きことは風の如く、其の徐なることは林の如く、侵掠することは火の如く、(略)動かざることは山の如く」の言葉でもよく知られている。
現在の経営者の中にも「孫子の兵法」を愛読し、経営判断に生かしている人は多い。
サラリーマンだって知っておいて無駄になる知識ではない。むしろ生き辛い、何かと難しい局面に立たされがちなサラリーマンにこそ「孫子の兵法」は必要だ。
そのことを認識したのは、ダイヤモンド・オンラインというネット媒体で「逆境を吹っ飛ばす江上・剛術・──古典に学ぶ処世訓──」で「孫子の兵法」を採りあげた時、結構なアクセスがあったからだ。
例えば「君命に受けざる所あり」という言葉がある。要するに戦争になって馬鹿な王様のいうことを聞いていたら、負けてしまうということだ。だから時と場合によっては王様の命令を無視しても良いと孫子は言う。これを福島第一原発の吉田昌郎所長(当時)の行動(例の原子炉への注水)と関連付けた時などは、驚くほどアクセスがあった。サラリーマンは誰でも馬鹿な上司の命令に苦労しているんだなと実感した。
貞務は、色々な問題に直面した時、「孫子の兵法」で考える。本書を読んでくれれば小説を楽しみながら「孫子の兵法」を学べるというわけだ。二倍、お得で面白い小説を目指せ。
舞台は銀行。得意の人事問題ドロドロにしようかと思った。
しかし、それは止めた。ただでさえ暗い世の中だ。小説の世界くらいは明るく、前向きにしたい。
そこで合併銀行の人事の暗闘をベースにしながら、貞務と一緒に若い人たちが活躍するものにしようと考えた。
ただの若い人ではない。女番長と言われ、周囲から畏れられる柏木雪乃という美人だ。
彼女を中心に銀行支店の幹部、若手行員がドタバタと動き回る。成功しているかどうかはわからないが、ユーモア小説の要素も加えたかった。
ここまでくればもうどこまでも行け!
銀行物で経済、「孫子の兵法」で教養、そしてドタバタのユーモア。三倍、お得で面白い小説を目指せ。
さて問題は、ミステリー。これは謎解きだ。難しい。書いたことが無い。ミステリー小説を読むのは大好きだ。特に折原一さんの『○○者』シリーズは、全部読破している。しかし、読むのと書くのとは大違いだ。
銀行の人事ドロドロで何をミステリーにしようかと頭を捻った。誰かが殺されるのもいいかと考えた。だが、私は殺人事件が好きではない。人が殺されてしまうのは、好みではない。
そこで「銀行を悪くしている一番の悪人は誰か?」または「銀行を私物化しようとしている者は誰か?」を謎にしようと考えた。
貞務は、支店長としてある支店に赴任する。そこで柏木雪乃に出会う。そして彼女が女番長と呼ばれて畏れられていることに疑問を持つ。最初の謎だ。
その謎は、徐々に大きい謎へと変化する。貞務は、勇次や藤堂、雪乃たちの助けを借りて謎を解くのだが、その過程で否応なく巨大銀行に渦巻く陰謀に巻き込まれて行くのだ。貞務は、謎を全て解明し、一番の悪人を懲らしめることができるのか?
謎は二転、三転し、本当の悪人は最後まで分からないようにした積りだが、果たして成功しているかは、やや心もとない。なにせ初めてのミステリーだ。
これで経済、教養、ユーモアにミステリーの要素が加わった。四倍、お得で面白い小説を目指せ。そして書きあげたのがこの『銀行支店長、走る』だ。
一粒で二度おいしい、アーモンドグリコもびっくり!
私が、ミステリーに挑戦するだけでもミステリーなのだが、小説は基本的に人生のミステリー、謎を書くものだと考えている。
その意味では、今までもミステリーを書いてきたわけだが、今度は実に苦労した。読者の皆さんには、犯人はこの人間だと思わせておいて、実は……と、ドンデン返しを仕掛けなければならない。それが簡単ではない。難しい。よくもミステリー作家たちはあんなに多くのドンデン返しを考えられるものだと畏敬の念を覚えたほどだ。
脳みそから汁が垂れるほどドンデン返しを考えた。そんなに苦労して考えてこの程度かと言われると情けないが……。私なりにはドンデン返しのドンデン返しになっているはずなので謎解きを楽しんでもらいたいと思っている。
さて、銀行を退職したのが2003年3月。今年で丸10年だ。曲がりなりにも作家として作品を発表させて頂いている。
デビューから数年は勢いで書いてきた。自分の経験を切り売りするような作品も多かった。しかしいつまでも勢いだけでは続かない。江上剛にしか書けない小説は何か? といつも問いかけているのが、ここ数年だ。
今回の『銀行支店長、走る』はタイトルこそ従来からの経済物路線だが、中身は違う。従来路線よりも数倍濃い内容だ。読者にとことん楽しんでもらい、それでいてためになる小説なのだ。
まさに江上剛の挑戦なのだ。
そして何よりも読後感の爽快さ、痛快さに重きをおいた。読者の皆さんには、スカッとして、明日からの仕事を頑張ろうという気持ちになってもらいたい。
※本エッセイは月刊ジェイ・ノベル2013年5月号の掲載記事を転載したものです。