新・あの人に聞きたい私の選んだ道
第5回
上野動物園園長
土居利光さん
平成26年冬季号掲載
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PROFILE
1951年、東京都港区生まれ。千葉大学園芸学部造園学科 卒業後、東京都に入都、首都整備局企画部に配属。以来数 々の職場を歴任し、2005年から6年間、多摩動物公園園 長を務めた後、現職の台東区上野にある日本で最初の動物 園・上野動物園の園長となる。

昔の動物園と言えば檻の中に動物がいるものでしたが、今は檻などありません。時代の価値観により動物園も変化するんです
上野動物園園長としての役割
 上野動物公園園長は、今年で4年目になります。動物園とは自然保護を理解するには素晴らしいツールで、動物たちを見ることで考えるきっかけが生まれます。例えば、パンダはクマの仲間ですが、竹を食べて生きることを選択することで進化して来ました。人間も同じように、進化の中で環境をつくることで生きて来たわけです。このように全ての動物は環境との関係で生態とか行動とかが決まるというのが私の持論ですが、実はパンダの環境を守るという行為は、そのまま我々の環境を守ることにつながっていきます。動物園はそういった投げかけをしていく、メッセージを発信していく場でありたいと考えていますし、それが今の私の務めだと思っています。


自然の残る都会で過ごした幼少期
 生まれは東京の港区で、今も港区で暮らしています。そう言うと皆さんに「いいところですね」と言われるのですが、私が生まれた60年以上前と、高層マンションやビルが建ち並ぶ今とでは全く違います。私の家は平屋で狭いながらも庭があり、そこで行水をしたものです。また隣家との境にはイチジクの木があり、そこにゴマダラカミキリムシが棲みついていたのを覚えています。オケラを見つけた記憶もありますね。小学生の頃は周りも平屋ばかりで、向かいの燃料屋さんの前には炭や薪が山積みになっていました。家の近くに原っぱもあって、そこが遊び場でした。
 白金にある自然教育園近くの通りに当時イチョウの木が植えられたのですが、50年を過ぎた今では立派な大木になっています。この自然教育園にもよく行きました。父親に連れられて一緒に訪れることが多かったのですが、当時は大らかだったのか、池でエビをすくっていても特に注意されることはありませんでしたね。
 現在の住まいはコンクリートで囲まれて緑がありませんが、妻の実家が都下の多摩にあり、そこには畑の他に義母が植えた梅、枇杷、栗……様々な木があります。義母の亡くなった今、近所の方には「土地がもったいないから木を切って全部畑にしたら」と勧められるのですが、義母の思いを大事にしたいのでそうは踏み切れません。時間があれば出向いて庭の手入れをしたり畑を耕したりして、収穫物を肴に妻とビールを飲む。そんな都会ではできない作業を楽しんでいます。



植物好きでおとなしい子ども
 決して活発な子どもではありませんでした。付き合いの長い地元の友だちとは遊びますが、それよりもひとりで庭に花を植える方を好みましたね。動物も好きでペットもいましたが、その死に接して以来、飼うことにためらいを覚えました。 学業はそこそこだったと思いますが、活発ではなく運動神経もさほどない。音感や美術センスもない……。そんな自覚があり、中学生の頃は常に劣等感を抱えていました。
 音感のなさはこの頃から感じていましたが、後にも身にしみた経験があります。新婚旅行ではインドネシアに行ったのですが、滞在先のホテルで演奏されていたガムランという民族音楽に感化されて、東京で習い始めたんです。少し専門的になりますが、ガムランにはペロッグ音階とスレンドロ音階というふたつの音階があり、演奏の際は最初の音を聞いてどちらであるか分からなくてはなりません。どちらの音階か妻には理解できるのに、私にはどうにもわからない(笑)。これはガムランを演奏するには致命的なことで早々に諦め、以来聞く専門です。同様にインドネシア語も習いましたが、読むことは得意でも話したり聞いたりすることは上達が遅かったですね。
 美術の面では、中学生の頃に打ちのめされました。スケッチなどでは結構周りに評価されていたのですが、同じように褒められている中でも、私の目から見てレベルが違う、段違いに上手い友人が存在するんです。そこに圧倒的な才能の差を感じた私は、この道でもないなと痛感しました。それでも静物画のスケッチなどは好きですし、仕事でもイメージを伝える際などに役立っています。


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