第2回 漫画原作者 倉科遼さん |
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●漫画との切れない縁、宿命 しかしこの時代に大きな発見があります。机を離れさまざまな業種の方と出会い、いろいろな話をすると、あれほど枯渇した漫画のネタが山のようにあるんです。本や映画から間接的に受けるネタより、オリジナリティーに溢れる話が世の中にはたくさんある。オリジナリティーのなさが悩みだった私が、この溢れる鉱脈に気づいてしまったのです。まさに「書を捨てよ、町へ出よう」ですね。 漫画を辞めようとしたら漫画のアイデアが湧き出て来る残酷さに、やはり自分は漫画から逃れられないのかと、何やら宿命を感じたものでした。 見聞きしたいくつもの話の中で一番私の心を掴んだのが、夜の世界でした。野球や麻雀漫画が存在するのは好きな人が多いから。そう考えると、男ならば仕事の他に興味があるのは酒と女。誰でも興味があるこの世界を、漫画ではなぜ誰も描いていないのだろうと不思議に思いました。 早速、地方から出て来た女性が、夜の銀座で伸し上がる成功譚の構想を話しても出版社には「あなたが描くのは男でしょう」と一笑に付されるばかり。なるほど、確かに今まで学ランものに特化し熱い男ばかりを描いていた自分には、女の艶やかさなど描けるか、と言われたらぐうの音も出ません。諦めかけていた頃、ある編集者に「原作者はどうだ」と提案をされたのです。原作者とは、漫画家が描く作品のストーリーを作る役割です。自分には全くの盲点で、その手があったかと霧が晴れる思いでしたね。それからは漫画を描き、会社の営業マンを勤め、土日に原作を書くという三足のわらじです。 そして、女性を描けば日本一だと以前から注視していた和気一作先生とのコンビで描いた週刊連載が『女帝』です。おかげさまで原作者としての代表作と言われる作品になりました。 40歳を契機に始めた三足のわらじ生活ですが、『女帝』のヒットを受け、原作者としての依頼を数多くいただき、45歳の頃には原作者一本に切り替えました。原作者として最も書いた時期で月産40本以上、さまざまなジャンルを題材にしましたが、すべて自分が見聞きし、体験したことが核になっています。以前に学ランものばかりを注文された経験ゆえに、出版社からの企画に安易に乗ることは自らに禁じているんです。必ず自分で企画することで、作品への責任も重くなりますし、思い入れを強く持って制作に臨めますから。 漫画だけの世界には今ひとつなじめなかった自分ですが、会社を興して体験した外の世界は、もっと大きく刺激もたくさんありました。この体験が、漫画業界にこだわらず、いろいろな世界の方と積極的に触れ合うよう努めるという、現在の信念になっています。しかし、漫画家を目指した動機が人と会わない、話さないで済むからだった私が、この業界では珍しいほど能動的な人生を送るとは…わからないものですね。 |
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●新たなる夢に向かって 原作者として20年を過ごさせていただきましたが、60歳を機に漫画界からは徐々に身を引き、新しい何かを模索すると決めました。それから数年経ち、さらに多くの人と会い、刺激を受けたことで映画製作など新たな仕事も花開いています。頭を抱えて閉じこもっていては駄目だとの経験から、じっとしていられないのは性分なのでしょう。たとえその時点では、苦しかったり辛かったり、また才能がなくても、努力を続けて頑張っているうちに突破口が見えてくる。それは中学時代の走り高跳びで培った私の原点です。今の子どもたちには、好きなゲームをしても漫画を読んでもいい。でも、好きなことはやる側より創る側にまわればもっと楽しいよ、と伝えたいですね。努力を重ねて生産する側にまわることができればお金も生み出せるし、もっともっと楽しくなってくる。もし才能がないと感じたのなら、その才能を乗り越える努力をすればいい。受け身ばかりで終わってしまう人生というのは寂しいと思います。 ●『親塾』について これから70歳までの数年間で、また何か新しい試みをと考えていますが、そのひとつに『親塾』があります。評論家・精神科医の和田秀樹さんと知り合う機会があり、今の時代は、親がどう子どもを育てていくか、どう接していいのかがわからない。親にこそ教育が、塾が必要ではないかという意見で意気投合したんです。子どもの問題を親はすべて学校のせいにしがちですが、学校は勉強こそ教えられても、人格形成に関しては家庭の責任です。このテーマでできることは何か、和田先生と一緒に話を詰めているところです。 子どもたちの将来を考える親として、社会に生きる者として、これからの自分に課した重要な課題です。
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