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●内向的で漫画好きな少年時代 生まれは栃木の黒磯町、今の那須塩原市です。父方の祖父が腕の立つ桶職人でした。家屋もけっこうな広さがありましたね。 父親は軍人でした。当時で言えばエリートで、実際頭のいい人だったのでしょうが、戦争に負けて復員してからは、何もできることがなく、祖父の桶屋を継ぎましたがうまくいきませんでした。以来、父は酒浸りの日々を過ごすようになります。父がそんな状況ですから、家はとても貧乏でした。 桶がプラスチックに変わって需要がなくなり、祖父も亡くなり…桶屋は廃業です。一方で母方の家は、武士の流れをくむ裕福な家系で、祖母がお歯黒を塗っていたことを妙に覚えています。 私は男4人兄弟の2番目ですが、少し浮いた存在だったようです。皆が遊んでいる時も、家でひたすら本を読んでいました。母方の実家には本棚がいくつもあるんです。そこの文学全集を読むため毎週汽車で通う、根暗な少年でした。 その頃から漫画が好きでした。月刊漫画誌は小遣いで購入し、活字本は親戚の家で読むと決めていましたね。しかし小学3~4年生の頃、貸本屋の存在を知り、それを読むことが唯一と言っていい楽しみになりました。学校でもひとりで本を読むのが好きな、引っ込み思案な子どもでした。 成績に関しては悪くなかったですし、絵画や作文などで毎年入選し、賞状をもらっていました。ただ勉強しか逃げ道がなかったというのが本音です。家の苦しさから目を逸らし、本を読んだり勉強したりすることで現実逃避をする。そんな気持ちだったのかもしれません。 小学校高学年で漫画を描くことを覚えて、逃避手段がそちらに移行しました。それでもわら半紙に描いてひとりで没頭しているだけで、とても周りに見せるような勇気はありませんでした。 ●悔しさから学んだ人生哲学 運動に関してはからきし駄目でしたが、何を思ったか中学校では陸上部に所属します。というのも校内陸上大会で、背が高かったこともあってか、初めて挑戦してみた走り高跳びがかなり跳べたんです。 陸上に関してはあくまで受け身でしたが、没頭するようになった出来事があります。小学校から高跳びをやっているふたりと、未経験者の私が同記録なのに、過去の実績を重視されて県大会には私以外が選ばれたんです。その時に初めて「悔しい」という感情が芽生えました。それまでは負けてもヘラヘラしていた自分が、悔しさに震えたんです。 それから2年半はひたすら陸上漬けの日々。裏庭に砂場を作って毎日練習しました。足は遅かったのですが、当然走ることもパワーアップする必要があります。本気で取り組み、鍛え始めると、必然的に走るのも速くなってくるものです。それでますます没頭するという日々でした。結果2年半経って、高跳びは学年で1番、足も学年で何番目かに速くなりました。まさに走り高跳びに捧げた中学時代でしたね。 この経験でわかったことは、才能なんてものは関係ないんです。好きになれば努力も楽しいし、苦しみも楽しみに感じられる。何でも本気で取り組めば、ある程度の結果が出せるんですね。折りに触れて意識するこの信念は、中学校での陸上経験で植え付けられたんです。 ちなみに、この信念は中学生の息子にも伝えています。全く運動せずにゲームばかりしていた息子が、身長が高いのでバスケット部にスカウトされたんです。全くついていけずギブアップ寸前でしたが、私は自身の経験を話し、諦めなければ何とかなると伝えました。その言葉が響いたのかどうか、何とか食らいついて頑張っているようです。 陸上以外では、漫画にも興味があった私は、貸本漫画家のアシスタント募集に応募し「中学卒業後においで」と声をかけていただきました。結局高校へ進学したので実現しませんでしたが、その頃から「何もモノにならなかったら漫画家になろう」という漠然とした気持ちは抱いていました。 ●初めての友人関係も引き裂かれ 中学卒業後は荒れた父親との衝突もあって上京し、母方の親戚の家から高校に通いました。新しい環境になったこともあり、友だちが欲しかったですね。だからクラスで付属中学上がりの、ちょっとワルっぽい3人組に声をかけたら、栃木からの田舎者を面白がってくれたのか、妙にウマが合って4人で毎日遊び歩いていました。音楽喫茶や芸能人の出没スポットに連れて行ってもらうなど、東京を満喫していました。また当時はビートルズ全盛時代。4人でつるむ私たちも御多分に漏れず、バンドをやるかと盛り上がったりする、まさに青春の日々でした。 しかし高校2年の6月、仲間のふたりが補導されたんです。普段から素行に問題があったそのふたりは、即刻退学となってしまいました。せっかくの友人関係はたち消え、校内には誰も友だちのいない環境に。仕方がないので真面目に授業を受け、放課後には退学した友人たちと遊び歩く日々でした。この友人とは大人になっても交遊があります。勉強だけでない関係が、強く結びつけているんだと思いますね。 家庭の状況を考えれば、大学に進学できるとは思っていませんでした。世の中に出る手段として高校時代は止めていた漫画をもう一度と、再び描き始めます。ところが高3の年末に親戚が「大学へ行け」と言うんです。進学クラスにはいてもビリの方でしたし、今更言われてもと諦めていました。しかし、そのクラスで上位の生徒は軒並み不合格。ビリ争いをしていた、私を含めた3人は希望大学に合格したんです。私は諦めていてプレッシャーがなかったのと、社会科に張ったヤマが当たったのが功を奏したのでしょうか。 合格した明治大学には、まだ70年安保の残り火がくすぶっている時代でした。テスト当日になると大学がバリケード封鎖され、テストがレポート提出に変更される。大学には都合2年間いたのですが、毎回こんな調子で一度もテストを受けた記憶がありません。 入学した農学部では、就職先はないだろうと感じていました。さあ、何をするかと考えたところで、やはり漫画だと三たび思い至ったのです。 その頃、漫画業界には青年誌というジャンルが出始め活気づいていました。業界の熱気を感じた私は、大学2年の夏休みから、ファンだった漫画家の村野守美先生のもとへ通います。 一方、独学で作品を描いては、新人賞に応募していました。いくつか賞もいただき、何とかなるかと感じていたので、大学2年の冬休みに1本描き上げ、村野先生に初めて見てもらいました。憧れて何度も模倣した先生の影響を多大に受けている作風でしたから緊張しましたね。作品を見て、先生は編集者を紹介してくださいました。
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