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●作者はいなくなっても物語は残る 私は赤ん坊の頃,しゃべり始めるのが人よりも早かったと聞いています。とてもおしゃべりだったらしくて,二歳の時に弟が生まれると,どんなに猿の赤ん坊みたいな子どもが生まれたかを,親に解説したそうです。 生まれ育った村木沢というところは,百世帯ぐらいしか住んでいないような小さな村だったので,私は小さい頃からどの家にも遊びに行っていました。とても陽気だったので,村では天使のような子供だと噂されるほどでした(笑)。 田舎ですから,近所の男の子達と野山を駆けめぐったり,走り回って怪我をしたりしていました。小さい頃は身体がとても丈夫でした。 両親は毎日,私に本を読んだり,寝物語にいろいろな民話や童話を聞かせたりしてくれました。父が宮沢賢治と高村光太郎をとても好きだったので,私がまだ文字も読めない二歳ぐらいから高村光太郎の詩を朗読してくれました。もちろん私は意味がわかりませんでしたが,そうやって耳にした言葉は何となく心に残っています。後の私の戯曲にとても影響していると思います。 私が五歳の頃に,父が『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』という宮沢賢治の未完の童話を読んでくれたことがありました。私が「どうしてこれは途中で終わっているの」とたずねると,父は「作家が死んでしまって,この続きはだれも永遠にわからないんだ」と答えました。 それを聞いた時はとてもショックでした。作者は死んでしまっていないのに,物語だけは残っているわけです。怖かったですね。物語には作者というのがいて現実ではないということが,その時に初めてわかりました。 ●初めての演劇体験 五歳の時に村木沢から山形市内に引っ越しました。ところが,今までと全く違う環境に移り住んだら,田舎と違って周りのみんなが意地悪そうに見えてしまったのです。人見知りが激しくなったせいもあったのでしょう。小学一,二年生の時に学校でいじめられて,登校拒否になってしまいました。また当時,私は太っていたし,みんなよりも頭一つぐらい身体が大きかったこともあったのだろうと思います。やはり子供というのは異形のものに対していじめますよね。 三年生になって,太田先生という若い男の先生が担任になると,転機が訪れました。太田先生はとてもほめ上手で,私が歌を歌えば「いいね」と,文章を書けば「うまいね」とほめてくれたのです。先生のおかげで,私も次第に学校生活になれてきて,元の明るく積極的な性格になりました。太田先生はとてもユーモアがある先生でした。 初めて芝居をやったのは小学二年生の時です。犬のお母さん役をやったのですが,舞台の上ではいじめられていた自分を忘れられたのでしょう。私はその時のことを覚えていないのですが,舞台で拍手をもらってとても気持ちよかったという意味の詩を書いたら,それを母が読んで「やっと元の明るいえり子に戻った」と泣きそうになったそうです。その詩は今でも母が大切に持っています。 小学五年生の時には,友人と共作して『光る黄金の入れ歯』という処女作を書きました。その時に自分で主演して,十一人の孫がいるおばあさんの役を演じたのです。その後は「宝島」のトムのお母さんの役を演じました。 中学生になると,いよいよ自分で書いた作品を演出するようになりました。『帰ってきた転校生』という作品は,学校中で評判が良くて再演したほどでした。
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